インドにカレーは存在するのか?

仏教

無我説と非我説という二つの考え方があります。これは仏教で良く言われる考え方で、仏教としては無我説を採用していると考えられます。このブログでも何度かお話ししたことのある諸法無我といわれる考え方で、仏教の根本的な教えである三法印に含まれます。三法印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つの教えを言い、これに一切皆苦を含めて四法印という場合もあります。ともかく、仏教の根本的教えであり、仏教の仏教たるアイデンティティーと言うことができます。文字通り、私という固有の存在は幻であり、実際は存在しないととか教えです。非二元(ノンデュアリティー)の方と同じ考え方と言っても構いません。

無我説と非我説の攻防

非我説というのは、一般的に使うのかどうかは知りません。非我ということは多いですが『説』というほど体系だった理論があるのかは分かりません。ここでは無我説に相対する概念として使っています。それを真我説と言っても良いのかも知れません。非我とは、『〜〜は私ではない』という否定を繰り返し、最終的には否定し切れない真理としての真我に到達しようとするものです。何故直接的に真我を指し示さないかというと、真我が人間の通常の意識できる範囲を超えた存在だからです。直接的に真我を説明しようという試みを無意味だとは言いませんが、説明した瞬間に説明しようとするすべての試みは嘘になってしまいます。この方法は仏教に留まらず、インドの古典・ウパニシャッドにも出てきます。ネティ(neti)といって、「これでもない、あれでもない」という意味を持ちます。人間が自分の本当の姿(アートマン)を知るために、体や思考など目に見えるすべてのものを「自分ではない」と否定していく方法論です。

透明人間の出てくる映画でよくある手法ですが、直接描くことの出来ない透明人間を視覚化するとき、透明人間に触れる、透明人間以外の物を見せることによって、そこに透明人間が存在することを視覚化することがあります。雨が人を避けるように降り、水滴が人間の形に沿うように空中を滴る。湿った地面に、人間が歩くのと同様に足跡だけが刻まれていくと言った具合です。見えないものを視覚化するには、見えるものの反作用を利用するしかないのです。そして、それが非我の意味です。本当の私を示すためには、本当の私ではないものを指し示すしかないという皮肉です。つまり、非我説には、本当の私、アートマン、真我の存在が前提としてあるのです。

無我説と非我説は、まったく逆の意味であるように思えます。確かに、それらは、私(アートマン、真我)が有るか無いかという核心的問題に対して、まったく正反対の見解を持ちます。僕は非我説を採りますが、実のところそれらの違いは解釈の違いに過ぎないのではないかと感じています。何の解釈の違いかというと、もちろん『私』というものに関する解釈の違いです。

どちらも、ネティ、ネティといって、本当の私ではない私を否定していくところは同じです。無我説の場合は、否定を重ねていきすべてを否定し切ったところで、「ほら、私は無くなったでしょ」と言い。非我説の場合は、「ほら、私は無くなって、本当の私が現れたでしょ」というのです。無我説の場合は、日常の中で我々が認識可能な自我を否定することで、それですべての『私』を否定したと思い違いをしているのです。それと比べて非我説は日常的に認識している自我を否定することで、否定できない私(アートマン、真我)を認識しようとします。

ここまで説明をしても、やはりそれらは解釈の違いなどという生やさしいではなく、まったく正反対の見解ではないかと感じる方もいるのではないでしょうか。そんなあなたに良い例え話を思い付いたので書いておきます。これが、ラストチャンスです。

カレーがない派とカレーしかない派の攻防

この記事を読んで頂いている方の中にも、インドを旅したことのある方はいるかも知れません。ある種のネタとして扱われることが多いのですが、インドには「カレーがない」という方と、「インドにはカレーしかない」という方がいます。同じインドのカレー事情に関して説明しているにも関わらず、まったく正反対の見解になるのです。これは、いったいどういうことだ、どちらかが間違っているに違いないと思われるでしょうが、そういう訳でもありません。どちらも一理ある意見なのです。現実のインドに二つの現象の違いがある訳ではありません。二つの意見の間にある違いは、それを認識している者の見解の違いだけなのです。

インドにカレーはない派の人々は、日本で食べられるいわゆるカレーライスがインドにはないと言い、カレーしかない派の人々はとにかくスパイを使ったカレー味の食べ物をカレーとみなし、インドにはカレーしかないと言っているのです。ちなみに、日本人の感覚からするとインドの食べ物はだいたいスパイスが使われておりカレー味です。日本の感覚で言うなら、醤油と味噌が全部カレー味に入れ替わっている感覚、つまりほぼすべての料理がカレー味になります。まったく同じインドという国の食事事情の話をしているというのに、カレーという食べ物への解釈の違いにより、「インドにカレーはない」という見解と、「インドにはからしかない」という見解、正反対の結果に辿り着いてしまうのです。

ここでその違いを生み出しているのは、カレーとは何かという解釈の違いだけです。そして、僕は、無我説と非我説の場合にも、同じ解釈の違いが起こっていると思っているのです。無我説をインドにカレーはない派、非我説をインドにはカレーしかない派とみなしてみて下さい。そして、そこで問われているカレーが『私』に当たります。無我説の人々は、日本式のカレーが存在しない、つまり僕たちが既に『私』として認識している私である自我が実在しないことをして「私は存在しない」という結論に達します。かたや非我説の人々は、同じように自我は存在しないという結論に達した後、それ以上の私を見出そうとします。その結果、見出されるのが、アートマン、即ち真我です。まあ、インドのカレー事情は、何も変わってないんですけどね。

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