推し活にハマる人々・まとめ

こころ

これまで、このブログの中で、何度か推し活について考えてきました。何故、推し活に付いて考えてきたのかというと単純で、僕が推し活をする人の心理がまったく理解できなかった。それなのに、推し活は経済活動の大きな部分を担い始めているという驚きです。「なんだ、なんだ。知らないところで、何やってんだ?」って感じです。推し活をしている友人に聞き取りをしながら手探りしてきたのですが、最近、自分としては納得できる答えに出会えたので、まとめとして書いておこうと思います。

ここまでの考察

一番最初の記事は『推し活にハマる人々』で、二番目の記事が『推し活にハマる人々・リターンズ』、三番目の記事は『存在することの痛みと、依存症』です。

推し活にハマる人々』では、何故、人々は推し活にハマるのかということを考えました。先ず、ギャンブルなどを例に取り、現代社会では叶えることのできなくなった、本能的な衝動の代用なのではないのかと推測しました。しかし、推し活にハマってある友人の。「ただ、推しが好きだから」という言葉によって推測は粉砕されてしまうことになります。結局、推し活にハマる理由は、純粋で根元的、つまりより崇高な願望なんだなって自分を納得させることになりました。

二番目の記事『推し活にハマる人々・リターンズ』では純粋で根元的、そしてそのより崇高な願望を探っていきます。推し活をする人々には、自己犠牲を強いてまで、他者の為に尽くしたいという欲求があるのではないかと考え、それを、大乗仏教における『菩提心』とみなしました。菩提心とは、仏のような悟りを求めて修行し、生きとし生けるもの全てを救済しようとする、利他心と向上心のことを指します。だいぶ、崇高ではあります。

三番目の『存在することの痛みと、依存症』という記事は、先の二つの記事とは少し毛色が変わります。この記事は、多くの人は生きていく上で、耳鳴りのように絶えず存在していることの痛みを感じ、その痛みから逃れるために、違う刺激を自らに与えて続けている。しかし、痛みは取り除かれているわけではなく、麻痺させ続けているだけなので痛み止めは与え続けなければならなくなる。それが依存症であり、推し活は依存症の一種として機能しているというものです。

新たな解釈

それぞれの記事に書かれた内容が、間違っているとは考えていません。ただ、だいたい結論が散乱したままなので、もう少し綺麗にまとめたいと考えたのです。

いきなり結論ではありますが、推し活にハマっている彼らは、自分が存在していることへの虚無感を、誰かの役に立っているという価値、ないしは意味で埋め合わせたいのだと考えました。これは、論理的に考えて埋まらなかった実感を、直感で埋め合わせたものです。

自分が存在していることの虚無感を埋め合わせたいというところは、三番目の記事で書いた「生きていることで感じる絶え間ない痛みを紛らわせたい」という動機と一緒です。さらに誰かの役に立っているという価値、ないしは意味という部分は、二番目の記事で書いた「菩提心」です。価値ないしは意味と二つの言葉を併記しているのは、価値を与えるのは意味であり、意味を与えるのは価値だからです。そして、推し活をしている彼らに、意味と価値を与えている、つまり行動の根拠となっているのが「ただ、推しが好きだから」という感情です。

以上が、推し活にハマる人々への考察になります。推し活は、自己の存在への肯定感を得るためのものであり、希薄さという痛みからの救済です。ただ、だからこそ過度の依存は危険を伴うことさえあります。それほど、自己存在の根源にアプローチしてしまうのです。「ご利用は計画的に」という訳です。推し活をしている友達からダメ出しをされそうですが、あえてここでは断言します。推し活は、自分が存在していることへの虚無感を、誰かの役に立っているという価値、ないしは意味で埋め合わせをする行為なのです。

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