古典的な宗教に於いては特に、生と死は平等で、それらの交差するところに神は現れるのではないかと思います。死は現代よりも、より具体的に隣接していたのだと思います。そして、神もまた隣接していたのではないのでしょうか。
神性と死
お祭りなどの宗教儀式には、危険なものが沢山あります。巨大な丸太にまたがり崖を滑り落ちるとか、巨大な山車を引き回すとかです。当然危険で、もちろんたまに死者も出ます。当然、警察などは安全に気を使い指導していますが、参加者はたまに死亡事故が起こることは仕方ないと考えているようにも感じます。
個人的な印象ですが、仕方ないという感覚以上に、もっと積極的に死を受け入れているように感じるのです。少なくとも、死が隔絶され、切り離されている日常とは違う世界の価値基準が、そこに存在しているように思えます。死は僕たちの属する日常の世界へ、神々の世界を導き入れるか、神々の世界へ日常を導き入れるための条件のようにも思えるのです。
そこに祭りのような儀式がなくても、死が存在するだけで、神々の世界に隣接することできるような気がします。死に隣接するような行為であれば、そこには神々の世界の気配のような、神聖さが存在するのではないかと思います。例えば、モータースポーツや、高山への登山、未開の地の探索などのように、死のリスクを受け入れてそれでも成し得ようとする行為です。
出産と神性
僕の友人の姉が、無介助分娩をしました。無介助分娩とは、医療従事者を呼ばずに、本人だけや、家族の助けのみによって出産する行為を指します。アクシデントとして起こる孤立出産などとは違い、本人の意思によって行われる行為です。もちろんですが、医療者の立ち会いがない出産は、母子ともに生命に危険を及ぼすリスクが非常に高いため、日本の医療制度や助産師会では推奨されていません。彼女は、何らかの理由により、あえて死のリスクを受け入れたのです。
先ず、結果的に彼女は無事に立派な子供を出産したことを断っておきます。彼女の決断は他人に勧められるものではないですし、勧めなくとも非難される可能性のある行為だと思います。母体に関しては彼女の体なので、彼女意思で決定しても良いと思いますが、生まれてくる赤ちゃんの命を母親の意思で危険に晒して良いのかということです。もちろん、彼女とご主人は緊急時のマニュアルを完璧に作っていました。そうだとしても、議論は残ると思います。しかし、ここではそこには触れずに、彼女とお子さんの末永い幸福を祈るに止めます。
彼女が、無介助分娩を選んだのは、それがより本質的な出産の姿だと考えたからではないかと推察します。しかし、僕が彼女の選択に感じる価値はそこではありません。それが、本来は避けるべき死のリスクを含んだ行為というところです。そして、死のリスクを含んでいるからこそ、出産は神秘性を持つのではないかと思うのです。つまり、出産という行為は、そのリスクに比例して神秘的な価値を高めるのではないかと思うのです。その時、死が隣接するのと等しい距離に、神は佇んでいたのかも知れません。彼女の選択は、予想以上の結果を得たのではないかと考えます。
古来、出産は神聖な行為でした。自らの体に他者の命を宿し、この世に生命を生み出すという神秘的行為です。人々は長い時間を掛けて、その行為から危険性を取り除いてきました。医学の発達により、出産は単なる生理的な現象に変えられようとしているようにも思えます。未知という曖昧さが取り除かれた後、それは生理現象の一種に数えられます。そして、死のリスクが完全に取り除かれた後、そこに、神は居ないのかも知れません。


コメント