宗教を分類する方法は幾らもあるのだと思います。僕はそのアプローチの違いから、プラクティスの宗教と、ストーリーの宗教と二つに分けて考えることがあります。
プラクティスの宗教は、何らかの修行をして、真理や、神、悟りに至ろうとする宗教を指し、ストーリーの宗教は神話に代表されるような物語を信仰することで救われようとするものです。もう少し具体的にいうと、プラクティスの宗教とは、ヨガや、東洋・西洋哲学、禅や、上座部仏教。ストーリーの宗教は、神道や、大乗仏教、キリスト教のようなものです。もちろん、それをキッパリ二つに分けたのは便宜的なもので、実際は一つの宗教の中に二つのアプローチは混在し、どちらのアプローチの方が重視されているかということを指しています。そして、意外に思われるかも知れませんが、この記事は一つ前の記事『虚無の穴を埋めるもの・推し活シリーズ⑤』からの続きになり、『推し活シリーズ』の最新の記事になります。惰性で続いてきた推し活に関する考察は、いつの間にかシリーズ化され、予想外に深まっていくことになるのです。
虚無の穴と推し活
これら二つのタイプの宗教が、推し活とどう関係していくのかということですが、『存在することの痛みと、依存症・推し活シリーズ③』で取り上げた耳鳴りのようなノイズであり、『虚無の穴を埋めるもの・推し活シリーズ⑤』に書いた虚無の穴です。耳鳴りのようなノイズと虚無の穴は、実のところ同じことの表現の違いと言っても構いません。もう少し正確にいうと、虚無の穴が原因で、耳鳴りのようなノイズが、虚無の穴がもたらす苦痛です。そして、虚無の穴とは、意味や仮定の集合体に過ぎない自我が持つ、実在していないかも知れない事実に対する怯えです。その穴を埋めれるものが、推し活における『自分は好きなものの役に立っている』という価値の実感です。その実感は、ひととき虚無の穴を彩りで埋めることができるのです。
さらに、その穴を埋めることができるのは、推し活だけではありません。生きていく上で、肯定的な意味と価値を持ち、その実感を感じられるものであれば何でも良いのです。目的を持って仕事で頑張るとか、ホストをナンバーワンにするために散財するとか、ギャンブルにのめり込むとか、アルコールでも構いません。その人が、その実感によって虚無の穴を塞ぐことができるのであれば何でも良いと言えます。極端な話、ノイズを聞かなくて済むのなら、苦しみであっても良いのです。苦しみに依存し、抜け出せなくなってしまっている人は良く見かけます。虚無の穴を埋め、絶え間ないノイズの苦しみから逃れられるなら、別の苦しみに浸っている方がまだマシなのです。
そして、この方法によって痛みを解消しようとする場合、その方法に対して依存してしまうことがしばしばあります。ホストにハマって借金を作ったり、仕事の場合は過労死、アルコールの場合はアル中、セックスの場合は性病や人間関係の破壊です。何故、それらの方法が依存的になってしまうか、より進めば依存症になってしまうかというと、それが快楽や喜びを感じるのが目的ではないからです。実のところ、その方法が痛み止めだからです。喜びや楽しみはいずれ飽き、その刺激から立ち去ります。ただ、痛み止めなら、痛みが存在している限りは必要になります。それらの行為がもたらしてくれる実感が薄らいだとき再び痛みは現れ、痛み止めとしての次の実感が必要になるのです。アルコールや薬物依存の患者を見れば良く分かると思います。効果が切れれば、また投与しなければならないのです。
虚無の穴とプラクティスの宗教
それでは、虚無の穴を埋め、ノイズを止める根本的な解決策はないのか、推し活のように一時しのぎのものではなく、それ以外の方法のような悪影響を与えない方法です。『虚無の穴を埋めるもの・推し活シリーズ⑤』の後半の部分で、悟りや一瞥体験というよな経験をするしかないと書きました。悟りや一瞥体験というものがどういうものであるのかということに関しては、このブログの複数の記事、具体的な事例としては『悟り体験コレクション』という記事に書いてあります。その記事の中のワンネス体験と分類された経験です。
その経験は、お釈迦さまが体験した悟りなのかと問われると、僕は違うと感じています。ただ、お釈迦さまの経験という縛りを付けずに考えれば、悟りの一種、悟りのお試し体験のようなものようなものとみなせると考えています。確かに、悟りを一瞬垣間見るという一瞥体験という言葉がピッタリかと思います。何故そう思うかという理由に関しては、『私はいないと言うけれど、天上天下唯我独尊』という記事の内容が関連しています。
その記事で、天上天下唯我独尊という状態を、いわゆるワンネス体験ではないかと考えました。『悟り体験コレクション』の中で、ワンネス体験に分類した経験では、自分の周囲の存在すべてが『私』であり、その私は存在する確信と、こよなく素晴らしいという実感に満ちています。僕はこの状態を、お釈迦さまが言った『天上天下唯我独尊』という状態と同一視しています。そして、それが、一瞥体験がお釈迦さまの経験した悟りとは違うと言った理由でもあります。お釈迦さま生まれ出て直ぐに『天上天下唯我独尊』と言った後、何年も経過してから菩提樹の下で悟りを開いたのです。比較神話学者のジョセフ・キャンベル氏は、お釈迦さまの誕生の瞬間の説話を、実際の肉体的誕生を指すのではなく、霊的存在として生まれ出たことを指しているのだと仰っていました。つまり、一瞥体験、ワンネス体験は、悟りという到達点に向かう、霊的存在としてのスタートラインということなのです。
その体験が悟りではなく、悟りの一瞥体験であったとしても天上天下唯我独尊という言葉が示すように、自己の尊さで世界が満たされることを経験します。そして、あなたがそれであることを直感的に感得するのです。その体験が終わった後も、その実感はあなたの存在自体を書き換えることとなるでしょう。もちろん、この物質的世界に暮らす以上、虚無の穴とそこから聞こえるノイズがなくなることはありません。しかし、その穴は随分と狭まり、体験は錨のようにあなたがノイズに翻弄されることを防いでくれることとなります。一瞥体験を超えた、お釈迦さまが菩提樹の下で体験した悟りなら尚更だと思われます。そして、これが、プラクティスの宗教が結果としてもたらす虚無の穴を埋める方法なのです。
虚無の穴とストーリーの宗教
僕は、このプラクティスの宗教のもたらす一瞥体験を含めた悟りこそが、最も本質的な方法だと考えてきました。何しろ、自我の持つ存在の不確実さという虚無の穴を、本来のそこにあるべき自己で埋めるのです。そして、その想いは、今も変わってはいません。ただ、それは余りにも困難な道のりで、極一部の人しか到達することができません。すべての人を救うことはできないのです。
それではもう一つのタイプの宗教である、ストーリーの宗教はどうでしょうか。そもそも、ストーリーの宗教とは、どのような宗教でしょう。こちらの方が、日本人が親しんできた宗教といえるかも知れません。古代日本の信仰において、死んだ後の霊は深山に行くのです。そこでそのまま過ごしたり、さらに天に登ったりします。そして、子孫の肉体に宿り、その子供としてこの現実の世界に再び生まれ出るを繰り返します。その世界感の中で、私は永遠に循環するサークルとして認識されます。そして、その中心には氏神として先祖がおり、私という存在は神によって肯定されます。
この感覚は根深く、仏教が到来した後は、逆に仏教を侵食していったと感じています。死んでも生まれ変わるという輪廻の思想は、最初から、仏教にあったと思います(仏教に輪廻はないと言う人もいます。仏教は輪廻主体である私を認めていないからです)。浄土信仰においても、浄土は、悟りを開くための最高の設備を整えたトレーニングジムで、最終的な目的は悟りを開くことだったのです。しかし、そのうち浄土に行くことが目的となり、浄土はトレーニングジムから天国へと姿を変えます。そして、お盆になると、先祖は子孫の元に戻ってきて、子孫は先祖に手を合わせるのです。
キリスト教も、もちろんストーリーの宗教です。イエスを信じて生きていれば、死後、神の国に行き永遠の存在になれるとされます。つまり、そのストーリーの中にいれば、自己の永遠は保証され、虚無の穴は埋まるわけです。そして、キリスト教の教えを信じる者は、日々の信仰を通じて、自らが神によって肯定され、永遠性を持っているという実感を得るのです。これは、推し活にハマる人々が、推し活をすることによって、自分は推しの役に立っているという実感を持ち、虚無の穴を埋めようとするのと同じ構造です。
救済の両輪
純粋なプラクティスの宗教や、ストーリーの宗教は存在しないと書きました。すべての宗教が、その両方の側面を持っています。あくまでも、どちらの側面を多く持っているかという割合の問題なのです。例えば、ストーリーの宗教の代表的な例として書いたキリスト教にも神との合一体験(ウニオ・ミュスティカ=Unio Mystica)を得ようとするキリスト教神秘主義や、イスラム教にも同様のイスラーム神秘主義(スーフィズム)があります。ちなみに神との合一体験で生じる快楽(どうやらかなり気持ち良い)のことをエクスタシーと言います。セックスの時の絶頂をエクスタシーと言いますが、本来は宗教用語です。
逆に、プラクティスの宗教にもストーリーはもちろん存在します。個々人が悟りを得ることによって、永遠の実在とする自己を得て、虚無の穴を埋めようとする宗教には、ヒンドゥー教や上座部仏教があると思います(上座部の人々が自己を得ようとしているという認識は明らかに間違っていますが、個人的には彼らの自己に対する認識の違いに過ぎないと考えています)。
ヒンドゥー教には、バクティ派と呼ばれる宗派があります。バクティというのは、『信愛』という意味で、最高神への絶対的帰依を言います。ヒンドゥー教の前身であるバラモン教は、特殊な修行と哲学理解を経て、一部の者だけが悟りに至るものでした。ただ、パクティ派は、最高神への絶対的な信愛を捧げることで誰もが救われるというストーリーを持ちます。日々の祈りや信愛を通して、彼らはストーリーに組み込まれているという実感を持つことができるのです。これは日本の浄土信仰ととても良く似ています。
上座部仏教で救済されるためには、悟りを開く必要があります。そして、悟り開くことは出家した僧侶にしかできないとされています。それでは、出家していない一般人は、どのように救済されるのでしょうか。そこで彼らはタンブンを行います。タンブンとは、得を積む行いのことを言います。具体的には、僧侶への布施(托鉢)や、寺院への寄付、生き物の解放(放生)、つまり鳥や魚を自然に逃がすことで命を助ける行為、困っている人や動物を助けたり、他人へ施しをする日常の善行などです。このような行為をする度に、得が溜まっていき、いずれは僧侶に生まれ変わり悟りを得ることができるというストーリーに生き、僧侶をバックアップしていることで、自らが到達点に近付いているという実感を得ます。これもまた、推し活で推しをパックアップしていることで、自分が役立っている存在であるという実感を持つ推し活と、何ら変わらないと感じます。
プラクティスの宗教は、真実の自己と出会うことによって、一部の人ではありますが本質的な救済を獲得できます。しかし、ストーリーの宗教は、そのストーリーを信じることで、信じるという間接的手段は用いるものの、信じた者のすべてのを、信じた瞬間に救済することができるのです。遠い未来に悟りを開くことができると信じることで救われるのは、遠い未来のあなたではなく、そう信じる今のあなたなのです。
何故、宗教ではなく、推し活なのか
ここまで読んで頂ければ、虚無の穴を埋め、絶え間なく続くノイズを消すのが、おもに宗教の役割であったことが分かると思います。それなのに、何故、推し活や、ギャンブル、依存症がその役割を担おうとしているのでしょうか。日本においては宗教の世俗化、オウム事件による宗教への忌避など、様々な理由が考えられると思います。しかしながら、おそらく最も影響しているのは、宗教の持つストーリーの破綻があるのだと思います。宗教の担っていた機能の、機能不全が起こっているのだと思います。つまり、宗教が展開するストーリーを、信じ切ることができなくなってしまったのです。そして、これは日本に限ったことではりません。
科学の進歩に伴い、宗教の持っていたストーリーは信じるに値しないものに貶められていったのです。地球は太陽の周りを回り始め、天国は存在せず、魔法や奇跡は起こらなくなりました。神ですらが存在を否定されていないだけで、肯定されることはありません。狂人は「神は死んだ」と叫び、実存主義哲学は神抜きの人間の在り方を模索し始めます。宗教の持っていたストーリーは、説教臭いお伽話に変わってしまい、虚無の穴を埋める力を失ってしまいました。
ストーリーの宗教の力が衰えたことは、プラクティスの宗教にももちろん影響を与えます。何故なら、それは割合の問題であり、一つの宗教の中で混在しているからです。悟りや哲学も、宗教色が薄まり、ある意味ファッション化しているように感じています。流行のブランドの服を身に付けるよな軽薄さを感じます。ノンデュアリティを標榜する人々のことです。それが本当の悟りであるなら問題はありませんが、だいたいは勘違いであり気休めなのです。
ただ、虚無の穴を埋めるためには、気休めであろうと、勘違いであろうと必要とされていることは確かだと思うのです。虚無の穴を埋めれるのであれば、埋めれないよりは余程良いことなのです。それは、何が正しいのかというのではなく、今をどう充実させて生きていくかということだからです。そういう意味では、既存の宗教という足かせから自由になったと考えることもできるのかも知れません。一般人にとって、宗教はその程度のものになってしまっているのだと思います。宗教に復興の兆しが見えない以上、推し活は既存の宗教の体たらくを埋める、新しい宗教的スタイルになるのかも知れないのです。
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いつの間にかシリーズ化した推し活への考察ですが、あらゆる衝動の起点となっている『虚無の穴』とは何なのかということについて、後日の記事で、もう少し掘り下げていきたいと考えています。

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