「偶然は存在せず、起こることのすべては必然であり決定している」とは、スピリチュアル界隈で良く語られる言葉です。そして、この言葉は決定論や運命論として、あなたの行動原理を根底から変えていきます。今回の記事では、この言葉の指し示すところを探っていきます。
すべてが決まっているとは、どういうことか?
そもそもすべてが決まっているとは、どういうことでしょうか? 自分は悟りを開いた、ないしは一瞥体験をしたと主張するスピリチュアリストの人たちは、落ち葉の落ちるタイミング、雨粒の濡らす地面の位置まで、すべてのものは完璧に決まっており、起こることがただ起こっているだけだと言います。そして、その思想が一般人に理解し難いところは、それが彼らの経験を根拠として語られているところです。つまり、彼らが自信満々に語る言葉は、一般的には既に理解できる範囲ではなく、信仰の対象としての機能に限られています。
ただ、その言葉を受けいるなら、生きることは随分と楽になることは確かです。何しろ、すべてのことが決定しているのなら、個人が努力する必要はないからです。どれだけ努力したところで、決定している結果を個人が変化させることはできません。個人ができることといえば、起こるべくして起こる決定した未来に対して、『サレンダー』することだけなのです。
サレンダーというのは、英語で、降伏するとか、引き渡すとか、放棄するという意味です。確かに、自分の人生への自分の影響を手放し、他人任せ(この場合はあなた以外の誰かではなく、運命や、大いなる意志などといった、より上位の存在です)にしてしまえるなら、自分の人生に立ち向かい、責任を果たす必要はなくなります。どうせ自分のコントロールを越えているなら、せめて楽観的にでもなるしかありません。
そして、そう言う彼らの多くは非二元(ノンデュアリティー)の考え方を支持しています。彼らの確信の「私はいない」という考え方は、「すべてが決定している」という考え方により、より補強されます。「私」という意思決定する主体がなければ、目の前に起こる出来事を受け入れるしかないのです。
ここまで書くと、またお前は非二元(ノンデュアリティー)を馬鹿にするのかと思われることかと思います。まあ、確かに大体は批判的な記事を書いていますが、今回はそうでもありません。すべては決まっているという考え方に、僕は多くの部分で共感しています。僕は、運命論者なのです。
僕の思う運命論
それでは、彼らの経験の中で何が起こり、どのような経緯を辿り、『すべては決定している』という結果を導き出したのでしょうか。これに関しては、彼らに直接聞いてみなければ分かりません。そういう訳で、ここからは僕が運命論者的な考え方をするに至ったのかの解説になります。まあ、「すべては決定している」と言い張る彼らも、だいたい同じような経緯を辿っているだろうと考えるからです。
僕が運命論者的見解を持つようになったのは、『始まりの記憶』という記事に書いた二度目の経験が元になっています。詳しい内容はリンク先の記事を読んで頂くとして、その体験は僕にとって唯一の必然といって良いものになりました。つまり、その体験がなければ、僕の人生は成り立たない体験です。それなのにその体験は、結果的には偶然の連鎖によってもたらされたものです。もちろん、個々の出来事に個人の主体的意思は影響していますが、それらも結局のところ新たな偶然を生み出しているだけに過ぎません。偶然の連鎖の中で、自分の立ち位置を確認する程度のことです。結局は、自らの主体的意思決定すらが、偶然の産物なのです。この辺の理解に関しては、過去の『構造は、自由意志に微笑まない』という記事の中の『主体性は誰のものか?』という部分に書いています。
あらゆる出来事が、偶然に分解してしまったにも関わらず、二度目の体験という必然が存在するのです。その時。それまで偶然だった出来事のすべては必然になります。それは、それまでの偶然のすべてを、肯定できる瞬間でもあります。要は、それまではバラバラに散りばめられていた出来事が、必然的経験に自分を導くための必然になるのです。例えば、事業に失敗して借金を作ったとか、大学に落ちてフリーターになったとか、彼女に振られたとか一見マイナスに見える出来事でさえ、それは絶対的必然に到達するための不可欠な経験として肯定されるのです。一本の数珠をイメージして下さい。その中の玉の一つが気に入らないからといって、その玉を切り取ってしまえば、糸が切断され数珠自体が分解されてしまいます。そして、その必然的結果に到達したということは、それらの数珠の玉は繋がっているのです。つまり、それらの出来事は、偶然であるからこそ、必然として肯定されることになるのです。この必然として肯定されるというとこが、彼らの言う『すべては決定している』ということと同じだと、僕は考えています。
未来に対して
彼らの言う『すべては決定している』というのは、過去に起こったことはもちろんですが、多くの場合は未来に対して語られています。絶対的に必然的経験に到達するまでの過程としての経験が必然であり、決定しているということはお伝えしました。しかし、それは過去に対する説明であり、未来に起こることも『すべては決定している』という説明にはなりません。それなのに、彼らは何故、未来に対してまで『すべては決まっている』と言えるのでしょうか。
ただ、これは実のところ、それほど難しいことではありません。時間軸を、絶対的に必然的経験を中心に、「パタン」と折り返してやれば良いのです。そうすれば、すべてが決まっていたという事実は、折り返された未来に適応される訳です。過去が決定されていたとするなら、その構造を当てはめられた未来もやはりすべては決まっていると考えるべきなのです。ただ、時間軸を折り返すなど、いくら思考の中の出来事だとしても何て乱暴なと思われるかも知れません。しかし、そうでもないのです。少なくとも、前例はあります。それが、仏教に於ける未来仏の考え方です。
未来仏とは、三世仏と呼ばれる仏の一つです。三世仏とは、過去仏、現世仏、未来仏によって構成されます。現世仏は釈迦如来で、過去仏は阿弥陀如来、未来仏は弥勒菩薩です。現世仏が釈迦如来というところは変わりませんが、過去仏や未来仏に関しては宗派によって違いがあり、過去仏も千人、未来仏も千人いるという宗派もあります。もちろん、この思想は大乗仏教の一部の考え方で、ここではこの説の意義を語るつもりはありません。ただ、ファンタジーとして人々の心を救ったという意味で価値ある思想だと思います。
ここで興味のある部分は、未来仏の存在する論理的根拠です。何故、未来仏が存在すると言えるのかということです。まあ、ファンタジーに根拠を求めるのもどうかと思いますが、信仰する人々を納得させるだけの理由は必要になります。それが、釈迦如来の存在しているという事実(信仰を持つ人にとっては事実であるという意味です)です。釈迦如来が存在するということは、釈迦如来に至る過去にも仏は居たはずだし、そうだとするなら釈迦如来を中心に時間軸を折り返せば、未来にも当然過去仏と同じように仏様が存在するということになります。そして、その考え方は、過去と現在だけに仏様が存在し、未来には存在しないと考えるよりは、余程自然で心に馴染む考え方です。
同様の経緯を辿って到達したであろう「すべては決まっている」という彼らの思想も、一定の説得力は持つように思えます。つまり、絶対的、必然から見てみれば、そこに至る経緯も絶対的ですべては決定していた。過去に決定していたのであるなら、未来も当然『すべては決まっている』という訳です。


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