意識とアイスクリームディシャー

スピリチュアル

意識とは何でしょうか。それは余りにも当たり前に存在するもので、考えすらしないことかも知れません。仏教の唯識的に考えれば、それしかないとすら言えるものです。そうであるにも関わらず、科学的にいえば、それが何であり、何処にあるかも分かってはいないのです。そういう訳で、今回の話は科学的な根拠は一切無く、『僕の思う意識』ということに終始します。

意識とは何か?

そうとは言え、いちおう一般的に意識がどのようにみなされているのかを見ていきましょう。意識とは、日常の中でも良く使われる言葉です。事故の被害者の意識があるかないかとか、女の子の胸元を意識してしまうとか、無意識的に髪の毛に触れてしまうとかです。まあ、何の問題もなく言葉として使いこなしておられるだろうと思います。

意識という言葉の使われる文脈から読み解くと、それはエネルギーのような特性が見えてくるのではないかと思います。電気のスイッチを押すようにオンオフができ、懐中電灯の灯のように特定の対象にウェートを振り向けることができます。その逆で、気になることがあったりするときには意識が散漫になったりもします。歯車が噛み合わず力というエネルギーが伝達できないような状態です。

では、意識をエネルギーのようなものだと仮定して、それが何であり、何処から現れているのかということです。例えば、体温であるなら、主に全身の筋肉や臓器で、食べ物から摂取した栄養素と酸素を使って作り出されていますといった具合に説明されると思います。それと同じような説明が意識に対してもなされるべきなのです。

AIさんに問い合わせてみたところ、脳の神経細胞(ニューロン)が複雑にネットワークを形成し、大量の情報を処理する過程で生じる「主観的な体験」や「感じること」の総体と考えられているそうです。ただ、それも良く分かってないことで、脳を含めた内臓全体から生み出されるという研究もあるそうです。意識=私と考えがちな僕たちは、意識は頭の中で起こっていると考えがちですが、そうとも言い切れないのです。

ワンネス的意識の有り様

ここからは僕の考えた意識の在処として、空想にお付き合い頂く訳ですが、脳だけに意識が留まらないのであれば、個人の肉体にも留まらないのではないかということです。つまり、意識は個人の物理的限界を超えて周囲にも広がっているのではないかという疑問です。

この考えは根拠のないものですが、そう考えるには理由があります。その理由は、いわゆるワンネス体験と呼ばれる神秘体験にあります。ワンネス体験については『悟り体験コレクション』という記事の中で解説しています。詳しくはそちらの記事を読んで頂くとして、ここでも簡単に説明しておきます。

ワンネス体験は、体験者によって細かなところに違いはありますが、共通する部分としては、自分と他者の間にあった分離がなくなり、すべてのものが『私』になるというものです。僕も同じような経験をしたことがあり、『始まりの記録』という記事の中で書いた一度目体験です。

その体験に於いて、体験者はそれまでは自分ではなかったものにまで、『私』である感覚を感じます。信号機であったり、灰皿だったり、目の前を歩く他人だったり、何もない空間だったりに対して『私』である感覚を感じるのです。僕の場合、その『私』という感覚は、私という意識のエネルギーのように感じられました。

逆転する理性

今まで、僕はワンネス体験において認識される『私』を、主体としての自我と、客体としての真我が一体となったことで、強烈な真我の投影が起こっているのではないかと考えていました。自我と真我は一体となり、自我は真我の内側から、真我を通して世界を認識するのです。あらゆるものに『私』としての真我を見ることは、必然のような気がします。それは心理学を根拠とする理性的な判断だと思いますし、それは今も否定するべき考えではありません。

ただ、意識が脳に留まるものでないのだとすれば、意識は肉体の外側にも拡大することは可能なのではないかとも思えるのです。つまり、あなたが認識するすべてのもの、この世界に存在するあらゆるものが、『私』という意識の現れなのではないのかと思うのです。そして、自我はその偏在する意識の中から個という意識を切り取り、行動の方向性という意思を与えているだけではないのかと思うようになったのです。

つまり、意識は、僕たちが存在する以前から、そもそもそこにあったのです。アイスクリームの詰まった無限のアイスクリームケースを思い浮かべて下さい。それが意識で、そこからアイスクリームディッシャーでくるんと掬い上げたアイスクリームが、個人の意識という訳です。

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