高野山はパワースポット

こころ

また、高野山に関する記事ですが、今回はパワースポットという観点から高野山を見ていきたいと思います。

パワースポットとは何なのか?

そもそも、パワースポットって何なのかということなのです。まあ、説明するまでもないことですが、いちおう調べておきました。大地や空間から特別なエネルギーが放出されており、訪れることで癒し、活力、ご利益などが得られる神聖な場所のことだそうです。海外で有名なのは、アメリカアリゾナ州にあるセドナという場所や、イギリスのストーンヘンジ、ペルーのマチュ・ピチュ、オーストラリアのウルル(エアーズロック)などで、有名どころだけでも数え上げればキリがありません。そして、大地や空間という不動不変のものから生じるパワースポットにも、流行り廃りがあるのです。スピリチュアル業界に起こりがちな、ブームのようなものですね。

スピリチュアル業界では、新しい話題が発生すると、多くの人々が一斉に飛び付く傾向があります。ノンデュアリティーや、一瞥体験、アセンション、常に新しい話題が誰かによって提供され、バスに乗り遅れるなとばかりにみんながそれに飛び付きます。そして、みんながそれに飽き始めると、次の話題が提供されるを繰り返します。もちろん、その繰り返し自体に飽き飽きして、スピリチュアル業界を離れる人も多いかも知れませんが、業界としては永遠に繰り返すのです。

パワースポットもまたその繰り返しの一部ですし、パワースポットの中でも、一つのパワースポットが飽きられると、新たな次のパワースポットか紹介されます。具体的には、長野県の分杭峠(ぶんぐいとうげ)やアリゾナのセドナなどがありました。長野県の分杭峠は、ゼロ磁場のパワースポットとして有名です。ゼロ磁場とは、地球の磁気のN極とS極が打ち消し合い、実質的に磁場がゼロになる場所を言います。このよう場所では、強力なエネルギーが湧き出し、癒しやヒーリング効果をもたらしてくれるのです。もちろん、似非科学で、ゼロ磁場になる場所なんて実際はほぼありませんし、そこがヒーリング効果をもたらすこともありません。まあ、お肉を食べても、野菜を食べればカロリーは打ち消しあって実質ゼロ、みたいなものです。

アリゾナのセドナの方は、僕の友達がパワースポットを経験するため実際に訪問しました。入域が制限されていたりで結構大変な旅だったそうです。そもそもインディアンの聖地だったらしく、赤茶けた岩が侵食されて奇妙な風景を生み出している場所です。ここには多数のボルテックスが存在しているらしく、それがパワーの源になっています。ボルテックスとは『渦巻き』という意味で、その渦巻きから地球の磁力やエネルギーが湧き出したり、吸い込まれたりしているらしいです。

それらに共通するのは、「それっぽい」ということです。だいたい、昔からの聖地や、特殊な景観の場所がパワースポットとされています。そこがパワースポットである明確な根拠はありません。完全に肯定することもできないけれど、否定することもやはりできません。「何となくそうなのかもな」程度の確証です。ただ、長野県の分杭峠やアリゾナのセドナの場合は、ゼロ磁場やボルテックスなどといった、キャッチーな似非科学が加わるところが厄介です。

ここまでは読まれると、パワースポットに対して、僕が若干否定的な印象を持っているように感じる方もいらっしゃるかも知れません。スピリチュアルというもの全般に対して、ある意味批判的な態度を取っているのは事実です。しかしながら、パワースポットに関しては意外と肯定的なのです。実のところ、そういうことはあり得るんじゃないかと思っています。その理由が高野山なのです。

個人的なパワースポット体験

ちなみに僕には霊的な力など一切ないので、パワースポットと呼ばれる場所に行っても明確にそのエネルギーを感じ取ることはできません。でも、「何だか違うな」とは感じるのです。それもパワースポットを訪れた翌日です。次の日の朝目覚めると、体の中に何らかのエネルギーが存在しているように感じるのです。

最初に感じたのは、実は高野山ではなく鞍馬山です。鞍馬山は、平安時代以降、山伏たちが修行を行う「修験道」の重要な拠点として発展し、現在ではパワースポットとして有名です。鞍馬山には鞍馬寺というお寺があって、そのお寺には、とても独特な教義があります。今回は特に取り上げませんが、話を聞けば「き、金星人?」ってなります。

で、パワースポットのエネルギーを感じたのは、鞍馬寺から鞍馬山を超えた貴船に至るハイキングコースを歩いた翌日です。朝起きると、体の中がエネルギーに満たされているように感じたのです。そして、同じような感覚を感じるのが高野山です。

高野山は真言密教の聖地であり、日本でも有数のパワースポットであると言われます。パワースポットであると実感する人は少ないとしても、確かに高野山を訪れた瞬間に全ての人がその清浄な空気感は感じることができるはずです。それは、奥深い山と木々によって空気が研ぎ澄まされたことによる結果として、当然なのかも知れません。しかし、僕が感じたのは、その延長線上にあるとはいえ、もう少し具体的な感覚です。雰囲気というよりも実感です。

最初に感じたのは、高野山は奥之院の山道を歩いていた時です。その日は、ただ移動するのではなく、目立つお地蔵様の前で立ち止まると手を合わせ、お祈りしながら進んで行きました。普通は、そんな手間の掛かることはしないのですが、そのときは暇だったのかも知れません。何しろ、奥之院の山道には無数のお地蔵様が祀られています。目ぼしいものだけと言っても結構な数になります。それに、僕には特にお願いしたい願い事もないのです。僕は、何も願わず、できるだけ集中し、できるだけ多くのお地蔵様の前で手を合わせ続けました。その時は、単純にそれが僕にとっても心地良かったというだけなのです。ただ、家に帰って翌朝目が覚めると、鞍馬寺を訪れた時と同じように、エネルギーが身体に満ちている感覚を感じ、その感覚はお昼頃まで続きました。

他にも、高野山の境内からは少し離れますが、山麓の廃線のトンネルの写真を撮りに行った時です。高野山周辺の山には、かつて高野山森林鉄道という鉄道が走っていたのです。鉄道と言えど旅客用のものではなく、切り出した木材を搬出するための小さな鉄道です。高野山周辺には、トンネルや、レール、橋脚の遺構などが点在しているのですが、僕が写真を撮ったそのトンネルが、おそらく最も規模の大きな廃線遺構だろうと思います。

僕は、廃墟としてのトンネルの写真を撮ろうと、トンネルの中を進んで行きました。小山を貫くトンネルの入り口から、反対側の出口まで歩いていき夢中で写真を撮りました。夢中というより無心だったと言った方が良いのかも知れません。それは、それほど美しい景色だったのです。撮影している最中は、美しい風景に出会えている高揚感しかなかったですが、やはり翌朝目が覚めると、身体の中にエネルギーが渦巻いているような感覚がありました。

高野山はパワースポット

つい最近、高野山を訪れた時も同じようにエネルギーを感じる経験をしました。身内に怪我によって手術をした者がいて、その人の快方を祈願しに高野山を訪れたのです。信仰心のない僕ですが、たまには御仏の慈悲にでも縋ってみようと思い立ったのです。一の橋から奥之院まで、二キロの参道を、以前のように、お地蔵様に手を合わせながら歩いてみたのです。最後は、御廟を守るように佇む灯籠堂てご祈祷をしてもらおうと考えていました。

祈りながら進む参道は、とてもリラックスして心地良い体験でした。灯籠堂でご祈祷してもらうことはなかったのですが、心地良すぎて帰りも一の橋まで歩いて帰りました。ここで奥之院参道のもう一つの主役たち、お地蔵様を紹介していきます。僕と一緒に、お地蔵様に手を合わせ、奥之院まで参拝してみて下さい。

地蔵不動尊(じぞうふどうそん)

地蔵不動尊(じぞうふどうそん)

お地蔵様の顔を持ち、お不動さま体を持つお地蔵様。建立者が「かほちそう、からだふとう」と平仮名で注文したところ、石工が「顔、地蔵。体、不動」と勘違いしたことによって生まれた、不思議な姿のお地蔵様。

数取地蔵尊(かずとりふどうそん)

高野山への訪問回数をカウントしてくれているお地蔵様です。このお地蔵様の数えた参拝回数は閻魔大王に報告され、回数が多いほど功徳を積んだとして罪が軽くなり、極楽浄土へ導かれると言われています。

身代わり地蔵(頬切地蔵)

人の代わりに頬の切り傷を引き受けたという伝承を持つお地蔵様。人々の苦しみを代わって受けてくれると信じられ、災難除けの信仰を集めます。

子授け地蔵

中の橋の近くに鎮座する、二体並んだ姿が愛くるしいお地蔵様。子宝や安産、子育てを願う多くの人々から長年信仰されているスポットです。

汗かき地蔵

汗かき地蔵地蔵

参拝者の身代わりとなって苦しみや罪を受け、代わりに汗をかいていると言われるお地蔵様です。立派な地蔵堂に祀られていて、実際に汗をかいてるのか、お姿を良く見ることはできません。すぐ横には、覗き込んで自分の姿が水面に映らないと、三年以内に命を落とすという姿見の井戸があります。

お化粧地蔵

お化粧地蔵

お化粧を施すと美人になると言い伝えられるお地蔵様。多くの人が化粧をしていくので、いつもベタベタの厚化粧です。しかし、たまに誰かにクレンジングされすっぴんからやり直しになります。見る度に、表情の違うお顔をしています。

名もなき地蔵様たち

奥之院の参道にあるお地蔵様の数は、正確には把握されていません。約20万基を超える墓石群があり、大きな墓石にはお地蔵様も含まれています。苔に埋もれるものも多いですし、これからも正確な数が把握されることはないだろうと思います。祈りの数だけ、お地蔵様は居てくれるのだと思います。

そういう訳で、高野山の奥之院への参拝は終了する訳ですが、今回、話題にしているのは、高野山はパワースポットかどうかということです。そして、お参りの終わった後に、やはり高野山はパワースポットであるという実感を、僕は深めることになったのです。

その日の夜から、体の中に何らかのエネルギーが存在する感覚がありました。その感覚は翌日も続き、体調に大きな変化がありました。それは、どうしても気のせいで済ませることのできない、パワースポットの影響に違いないと思えるほど明確な変化です。

しかし、高野山へ行けば、必ずエネルギーを感じるかというとそうでもありません。あー、楽しかったなってだけで終わる場合も沢山あります。それでは、高野山のエネルギーを感じる時と、感じない時の条件の差は何なのでしょう。エネルギーを感じる時は、廃トンネルで写真を撮ったときのように、無心で何かに集中し没頭しているとき。何の願いごともせず、お地蔵様の前で手を合わせ精神を集中させているとき。願いごとはしているけれど、自分のためではなく誰か他人のために祈っている場合です。もちろん、参道で祈る回数、時間を十分取っているのは事実ですが、やはり『無心で夢中』になっている時か、『無私で夢中』で祈っているときに、最も効率的にパワースポットとしての、高野山のエネルギーを得れるようながするのです。どうか皆さんも、奥之院の参道で、パワースポットを実感してみて下さい。

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