ヤドカリと、イソギンチャクと、私

こころ

ヤドカリとイソギンチャクは、共生関係にあることをご存知でしょうか。ヤドカリは借り物の貝殻にイソギンチャクをくっ付け、その毒の刺胞によって、天敵のタコなどから身を守るのです。イソギンチャクはというと、ヤドカリの貝殻と一緒に移動することで、広範囲で捕食することができるようなります。まあ、共生なので、ウインウインの関係なのですね。

借り物の私

そこで僕は思うわけです。イソギンチャクをくっ付けたヤドカリは、くっ付けていなかった時と比べて、自分は強くなった、つまり個としての私の価値を上げたと感じるのではないかと。まあ、ヤドカリはヤドカリですのでそんなことは考えないですが、人間がその立場になればどう感じるのだろうと考えてしまうのです。例えば、イソギンチャクを付けている時は、「タコごときが、俺の毒触手結界を破れるとでも思ったか! ふふふっ」みたいな感じで、付いていない時は、「タコさん、私はカニですらない名も無きモブに過ぎません。あなた様のお相手はあちらの勇者ワタリガニさんです」みたいな感じです。「イソギンチャクのあるときー、ないときー」みたいな感じで、テンションがまるで変わってしまうのではないかと思うのです。

ヤドカリの世界で起こっているのと同じようなこと(本当は僕の脳内で起こってる)は、人間の世界でも頻繁に起こっています。例えば、大型の高級車に乗った人が、小型の軽自動車に対して煽り運転をするとか、ヤクザから名刺を貰って「俺にはバックにヤクザが付いてる」って、ヤクザにでもなったつもりで調子に乗る人。僕の知人には、どこかでクレジットカードを作ってきて、「俺は直ぐに使える金を、50万持っている」と言っていました。よくよく聞いてみると、クレジットカードのキャッシング枠のことを言っているようでした。どうやら彼はキャッシング枠を、銀行預金と同じ自分のお金だと勘違いしているようでした。レベルの違う馬鹿は実在します。

僕の挙げた事例と、ヤドカリとの間の共通点は何でしょか。それは、彼らの感じている『私』が、借り物であるということです。つまり、自分以外のものの価値を自分だと思い込んでしまうのです。その仲介をしてしまうのが、だいたいは『所有』という概念です。この概念が挟まると、他者の価値が自我の価値に組み込まれることになります。もっと、例を出してみます。例えば、仕事の役職の地位を自分の尊さとみなしている人。高級ブランドの服に身を包んで、自分の価値が上がったように感じる人。同じ服でも、環境意識の高いメーカーの服を着ることで、自分も意識の高い人間であることを誇る人。家族の間でもそうです。息子が東大に合格したことで、親の価値も上がったと思い込んでしまうのです。それら他者の価値を自我に組み込んでいるのは、『所有している』という事実です。所有しているという事実を使って、彼らは常に自我を肥大させようとしているようにも思えるのです。それは、ヤドカリが貝殻にくっ付けるためのイソギンチャクを、必死に探して回っているようにも見えます。

不変の私

何故そのようなことが起こるのかは、おそらく自我が意味の集合体に過ぎず、その自我は常に自らの存在を強めようと画策しているからだろうと思います。もしかすれば、ヤドカリがそうであるように、人類という種の生存戦略に関係しているのかも知れません。ただ一つ確実にいえることは、私という存在は意味を付け加えることで強めることができると、人は思い込んでいるということです。どうしてその様な発想になるのかといえば、彼らが『私』が何なのかを知らないからだと思うのです。彼らは、無意識にではありますが、私という他者との境界線が膨らんだら縮んだりするもの、そしてそれは膨らませ続けるべきものであると感じているのです。

「あなたは、まだ何者にもなっていない」と映画の登場人物が主人公に対して言っていました。「インドに自分探しの旅に行く」とかも良く言います。僕は、どちらの言い分に対しても、若干の違和感を感じます。どちらもいま以上の自分があって、いずれその自分に成れる、あるいは出会えると考えているように思えるのです。確かに、意味の集合体としての自我からすれば、そう考えてしまうのは当然かも知れません。自我は常に変化しているのです。そして、日頃は自我によって私が支配されている以上、それらの考え方が間違いであるとは言いません。

ただ、自我は意味や感情の集合体に過ぎません。やはり本当の自分ではないのです。それは儚い幻に過ぎません。このブログでも何度か取り上げていますが、サンスクリット語でネティ・ネティ(neti neti)という言葉があります。「これではない、あれではない」という意味で、「〜〜は私ではない」と否定を繰り返すことで、本当の自分(真我=アートマン)を探求する手法です。何故否定で指し示そうとするのかというと、それが直接的には指し示せないものだからです。指し示すことのできる「それではないもの」を示すことで、「指し示せないもの」の輪郭を浮かび上がらせようと試みです。この構造に関しては、以前にも説明したことがあります。

映画などで、透明人間を観客に見せようとするとき、直接透明人間を描くことはできません。何故なら、透明人間は目に見えない不可知な存在だからです。そのようなときは透明人間に接する透明人間ではないものを描くことで、透明人間の存在を認識させます。水蒸気が透明人間の肉体を避けるように広がったり、血飛沫が何もないはずの空中に、透明人間の輪郭を描き出したりというようなことです。それによって観客は、目には見えていないだけでそこに透明人間が存在していることを理解することができるのです。

つまり、「ネティ、ネティ」という否定によって、間接的に浮かび上がっるのが、本当のあなたは真我(アートマン)の在処であり、本来は不可知であるそれと直接的に一体になるのが悟りです。そして、その視点からすれば、何者かに成らなくともあなたは完成しているし、探すまでもなく既にここにあるのです。どれほど、価値あるもので飾ろうと、その価値は幻であり実在することはありません。何故なら。本当のあなたは既にここに存在し、永遠不変の真理だからです。幸いなことに、自己の存在を強めるため、あなたはヤドカリのように、イソギンチャクを集めて回る必要がないのです。

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