仏教は唯物論というか、科学的思考と相性が良いように思うのです。何故なら、仏教は割り切れる宗教だと感じるからです。割り切れる宗教と言われると、「何だ? それ?」って理解できないことばかりで、疑問符が続くことになるだろうと思います。でも、心配しないで下さい。もちろん、それは比喩的表現で、実際に割り算をするつもりはありません。言い方を変えるなら、すべてを論理的に説明できるという表現はどうでしょうか。
ちなみに、ここで言う仏教は信仰ではなく、学問的な仏教という意味ですし、大多数の仏教宗派ということであっても、全てという訳ではありません。信仰に関しては、信じるという行為が介在することで常に非合理なものですし、合理的に理解できてしまえば信じる必要がなくなり、信仰自体が成立しなくなると思います。
仏教と論理性
仏教における根本的教えとして、縁起があります。縁起とは、あらゆる存在や出来事は単独で存在しているのではなく、数え切れないほどの原因と条件が重なり合って成り立っているという「真理」そのものを指すとされます。まあ、まったくもってその通りだと思うのですが、それは思考によって納得してしまえる以上、「真理」ではなく「事実」なんじゃないのかと思う訳です。事実は検証可能で、論理的に説明可能な、象徴的表現をするなら割り切れるものだと思うのです。
大乗仏教における空もそうです。空とは、すべての物事が単独で独立した実体を持たず、常に他のものとの関係性(縁起)の中で成り立っているということを指します。例えば、子が存在するのは親が存在するからで、親が存在するのは子が存在するからです。まあ、空の思想は、縁起の思想のアップグレードバージョンとみなせますのでどちらも同じようなものと考えてもらっても結構です。つまり空の思想もまた、論理的に検証可能なものです。理解さえできれば、3分クッキングのレシピのように、誰もがだいたい同じ結論に至れます。
仏教は、科学の御用聞きなのか。
そして、科学においても、因果律(Causality)は、絶対的な基盤です。すべての出来事には必ず原因があり、原因なしに結果は生じないというのが、現代科学のあらゆる分野で基本原理になっているそうです。つまり、科学は原因と結果を繋ぐ方程式を探し、仏教はそこに真理を見い出します。それらは正反対の性質のものであるように見えるのに、根本的な態度は共通しているように思えるのです。
根本的な態度が同じであるなら、もたらされる結果も良く似たものになるのかも知れません。最新の量子力学の研究内容などが、仏教の教えと良く似ているとはしばしば言われることです。それは騒ぎ立てるようなことではないですが、宗教としては幸運なことなのかも知れません。天動説が地動説によって否定されたように、多くの宗教が科学的事実によって否定されてきました。それとは逆に仏教は科学を味方に付けているようにも見えます。科学万能の現代において、証明された事実は、根拠のない真理より優越しているのだと思います。
しかし、宗教には決して科学では割り切ることのできない部分があります。それこそが神であり真理であるのです。だからこそ、宗教は科学の上位概念になり得るのだと思うのです。そうでなければ、いくら科学的事実と共通するといっても、科学の御用聞きに過ぎなくなると思います。しかしながら、現代の仏教には事実として割り切れること以外がないように思えるのです。知識では到達できない真理であるとか、神であるとかの超越的概念が存在していないように思えるのです。
仏教とあなたとアンドロイド
確かに、仏教には神というような超越的概念は存在しません。仏様が居るだろうと思われる方もいらっしゃるでしょうが、本来、仏とは目覚めた人、つまり真理を悟った人を指す、サンスクリット語の「ブッダ(Buddha)」に由来します。つまり、仏とは、あくまでもあなたと同じ人間のことです。大乗仏教では様々な仏様が存在しますが、それは後世にブッダという概念が神格化されたものだと思います。
それでは、仏教に論理的に説明不可能な超越的概念がないのかというと、それが『悟り』であったはずです。しかし、悟りもまた余り重要視されていないのではないかと思います。禅などの印可状(弟子が悟ったことを証明するために師匠が出す認可状。悟ってなくともお金を払って受け取ったりもしていた)などを見る限り、単なる資格試験のようにみなされているのではないかと思うこともあります。日本の浄土信仰などでは、悟りよりも浄土に行くことがより重視されます。
神秘性をなくした仏教には、因果の法則を根拠とした合理性、論理性だけが残ります。そして、仏教における因果の法則では、僕たち人間も五蘊が仮に寄り集まって一時的に姿を現しているだけのものに過ぎないとされます。何度も繰り返しますが、合理性、論理性に貫かれた、象徴的表現を使え我々人間も割り切れるのです。つまり、コンピュータに置き換え可能です。
頭の中から、記憶を取り出し、思考パターンや傾向を観測しアルゴリズムを導き出せば、コンピュータの中にあなたという私を生み出すことは可能です。そして、そのコンピュータを、あなたにそっくりのアンドロイドの頭部に埋め込めば、あなたという『私』を持った、もう一人のあなたが完成するわけです。その時、仏教は、そのもう一人のあなたを、他者として否定する根拠を持たないだろうと思います。
そういう意味で仏教は、映画などで出てくる、いわゆる自我を持ったAI(人工知能)を肯定せざるを得ないと思います。AIを人間に等しく扱うのか、人間をAIに貶めるのかは別にして、仏教では、あなたと、あなたそっくりのアンドロイドとの間に本質的な違いを見出すことができないからです。何故なら、仏教は魂という、神秘を認めていないからです。

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