らっきょうを剥く猿たちへ

こころ

人間は、答えを求め常に考え続ける生き物です。あなたにも経験があるのではないでしょうか。スピリチュアル界隈などでは、自動思考と呼ばれるものです。勝手に頭の中で繰り返され、あなたの精神のエネルギーをすり減らせていきます。仕事、恋愛、友人関係、哲学的問題なとで、何とか解決しようと勝手に頑張って考えてしまうのです。先に精神のエネルギーをすり減らすと言ったように、だいたいは、否定的な内容で、出口のない袋小路に閉じ込められてしまうのが常なのです。

それはバナナか?

何故このような状況に陥ってしまうのかというと、考え続けた末に答えが手に入ることを期待しているからです。答えが手に入ると考えているからこそいつまでも考え、答えを出そうとして出なかった思考は、無駄だった過程、つまりゴミとして捨てられてしまうのです。

この状況を他の事象に例えると、猿がバナナの皮を剥いている状況です。例え話としてなら当然ですが、猿にバナナを渡すと皮を剥いてその実を食べます。それがバナナであるなら、それでめでたしめでたしということでお話は終わるのです。しかしながら、目的とする実がなく皮ばかりならどうでしょうか。つまり、到達するべき答えがそもそも存在しない状況です。

猿の例えに戻るなら、皮しかない食べ物の皮を剥いている状態です。らっきょうや玉ねぎを猿に与えた状況を想像してみて下さい。猿は、バナナの時と同じように、中心にある実を食べようと皮を剥きます。しかし、ここで問題が生じます。らっきょうや玉ねぎに実はなく、皮しか存在しないのです。その事実を知らずに、猿は存在しないらっきょうの実を得ようと、皮を剥き続けるのです。一つのらっきょうの皮を剥き終わると、次のらっきょうの皮を剥くを延々と繰り返します。終いに、猿は実に辿り着けないことに対して、ウキウキ言って怒り出してしまう訳です。これが、自動思考をいつまでも繰り返し、疲弊してしまうあなたの状況です。

らっきょうを剥く猿

実は、この猿のお話は『猿とらっきょう』という仏教の説話で、実際のところ、猿にらっきょうを与えると、皮も剥かずにポリポリムシャムシャ食べてしまうそうです。説話を成立させるために、ちょっと話を盛っちゃっているのですね。ただ、まあ、そのあえて盛っちゃってるところにこそ、盛らなければならなかった、この話の趣旨が含まれている訳です。

では、この話の趣旨とは、『らっきょうに実はない』ということです。「えっ? そこ?」と思われると思いますが、例え話を本来の状況に当てはめ直して下さい。あなたは答えを求めて考えます。そこに答えがあると考えているからです。しかし、答えなんてないんです。あなたが剥いていたのは、バナナではなくらっきょうだったのです。どれだけ考えても答えに辿り着くことはできないのです。それも、このブログを読んでいるあなたなら、到達したい答えは真理なのかも知れません。そうだとするならなおさら、その答えは思考によって導き出せるようなものではないでしょう。

つまり、延々と皮を剥き続け、ゴミを積み重ね続けていく訳です。確かに、実のあるらっきょうが存在する可能性をゼロだとは言いません。突然変異により、実のあるらっきょうが生まれないとは言いません。しかし、期待できる確率ではないでしょう。それならば、らっきょうに実はないという事実を受け入れてしまった方が生産的です。例え話を元に戻せば、思考を使って真理に到達しようとする試みである西洋哲学は、いまだ真理に到達したとは言えません。

ゴミを宝に変える

仏教においては、人間の執着を皮肉る話として語り継がれています。実ないらっきょうであるにも関わらず、実を食べることに執着するが故に、皮を剥き続ける愚かさを戒めているのです。

ただ、僕の考えは少しだけ違います。思考を繰り返すことで答えに到達できるということを否定する、諦めることは同じです。ただ、その思考があなたの考えた思考であるということを受け入れることです。そして、私が考えた思考として、それらの思考を観察するのです。

そうすることによって、あなたは私を知ることができます。ここで知る私は、アートマンや真我ではありません(それを知れば、真理に辿り着いちゃいます)。それは、あなたが日々認識している自我のことです。自我がどの様な思考パターン、つまりどの様な傾向を持っているのかを知ることができます。思考パターンだけではありません。感情の傾向も知ることができます。どの様な感情的反応をするのかを知ることができます。そして、それらの繰り返されるパターンを知れば、そのパターンを繰り返さなくても良くなります。

多くの人が一般的に苦しんでいるのは、そのパターンに操られているからです。そして、それが無意識的に行われているからこそ、操られていることにも気付けず、苦しみ続けるのです。そして、その苦しみから逃れるために答えを探してらっきょうを剥くという無限ループに捕らわれます。

つまり、僕が提案したいのは、実のあるバナナを剥いているのではなく、らっきょうを剥いているということを知ることで、それまで実を得るために発生したゴミとしての皮こそが、可食部として価値があるということを知ることです。そうすることで、あなたは自我のパターンを知り、その束縛から自由になれます。これは、ゴミを宝に変える方法なんです。

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