神と熊が出没しています。注意をして下さい

精神世界

現在は令和8年なのですが、熊が市街地にまで降りてきたっていうニュースが世間を騒がせています。去年は熊の駆除に自衛隊を派遣するとまで言っていました。ゴジラやキングギドラが現れた訳でもないのに、さすがにやり過ぎだろうって思いました。結局、自衛隊は派遣されなかったと思いますが、それでもいささか騒ぎ過ぎではないかと思うのです。

神としての熊

確かに熊は危険な野生動物です。人間の生活圏に入り込んできたときには追い出さなければならないし、余りにも頭数が増えたときには何らかの方法で頭数制限をしなければならないと思います。しかし、その時、忘れてはならないことがあると思うのです。それを忘れてしまうと、僕たち人間、特に日本人は大切なものを失ってしまうことになるだろうと思うのです。そして、その大切なものとは神であり、神との繋がりです。

古来、世界の多くの地域で、熊は神であったり、神の使いであったりとして扱われてきました。日本においても同様で、アイヌが熊をキムンカムイ(山の神)として捉えていました。縄文においても単なる狩猟対象ではなく、祭祀の対象や信仰のモチーフとしていたと言われています。東北や甲信越の山間部で伝統的な狩猟を行うマタギは、「熊は山の神からの授かり物である」というアニミズムが今なお根付き、狩猟の前には身を清め、熊を仕留めた際にも感謝と鎮魂の祈りを捧げるそうです。総じて言うなら、山は人間の力の及ばない「他界」であり、そこに棲む熊もまた、山の神の使いや畏怖される存在として認識されてきたということです。

つまり、熊は日本人にとって、神ないしは神の使いとして、畏怖や畏敬の対象だった訳です。それなのに、いまや熊は害獣として、町中を追い回される姿がテレビで放送され、駆除の対象になっています。神であった熊は、嫌悪と恐怖の対象に貶められようとしているのです。それだけならまだマシなのかも知れません。熊は、お茶の間の暇潰しの話題か、経済的合理性の妥協点として数字に変えられようとしているのです。それは、少し前までは神だった存在なのにです。

関係の喪失と霊性の消失

「それがどうした。俺たちの日々の生活とは関係ない。古臭い神話的な話だろう?」と感じる方もいらっしゃるかも知れません。というか、そう考える方がほとんどだろうと思います。しかし、本当にそれは関係のない話なのでしょうか。熊が神や神の使いだった頃に築いていた人との関係は、完全に消滅してしまっているのでしょうか。

僕はそうは思ってはいません。神聖な生物として、無意識の世界では他界である森との間を繋いでいるのです。日本人の心の底には、今もアニミズム的な深層が存在していると考えています。合理的な西洋的価値感に貫かれた現代の日本においても、非合理で不条理な理論によって自然の霊性と繋いでくれているのです。そして、その霊性と繋いでくれているのが熊なのです。もし、熊を西洋的合理的判断によって殺してしまえば、僕たちは自然の霊性との関係を失ってしまうのです。

非合理であるということ

僕は熊を殺すなとは言っていません。それは、場合によって、仕方のないことなのだろうと思います。ただ、神や、神の使いとしての尊厳を守って欲しいと思うのです。視聴率稼ぎのためにテレビで見せ物にしたり、処理するべき廃棄物として扱ってはいけないと思うのです。

例えば、マタギが熊を狩るときは儀式を通じ、神に感謝し、熊を神からの授かり物として扱います。それは、神との繋がりに他なりません。そして、その神との繋がり、自然の霊性との繋がりはやはり維持されるべきものなのです。それを無くしてしまう訳にはいきません。ただ、現代のハンターにマタギの儀式を行うことはできないでしょう。

それでは、どうすれば良いのかということなのですが、ある程度の非合理な部分を残しておいて欲しいのです。その非合理的な部分が、どういったものなのかは分かりませんが、例えるなら日本人の持つ曖昧さのようなことです。その非合理的な部分が、西洋的合理主義によって、日本の霊性が破壊されることを防ぐ、弛緩剤の効果を生んでくれると思うのです。

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