縁起と空 -表現の違いを超えて-

仏教

仏教の核心的教えに、縁起と空というものがあります。縁起とは、すべての事象は固定的な実体を持たず、直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)が組み合わさって、結果(果)が生まれるという道理を指し、お釈迦さまが悟りを開いたときに見たビジョンに基づいています。一方の空は、お釈迦さまか亡くなった後、700年ほど経った紀元2世紀ごろに、龍樹(ナーガールジュナ)という人物によって説かれた思想です。すべての物事は、不変で独立した実体(固定的な自分や本質)を持たない空であるということを説いています。般若心経の「空即是色・色即是空」という言葉が有名です。

今回の記事では、縁起と空という、あたかも別々の教えのように感じられる彼らの教えが、実は同一の教えであるということを確認していきたいと思います。実のところ、因果と空は、違った表現によって説明される同一の真理です。そして、この表現の違う二つの教えの共通点を見い出すことでより素早く仏教の思います。ちなみに、ここで書く考えは大乗仏教的な立場になると思います。何しろ、上座部仏教には空の思想は存在しないからです。

縁起と空の何処が違っているのか?

縁起と空は同一の真理であると言いながら、違いを探すところから始めていきたいと思います。違いを超えた共通点を探すことが目的です。

一般的な縁起の理解は、すべての物事は、直接的な原因(因)と、それを助ける条件(縁)が揃って結果(果)として現れる。それは相互関係であって独立自存のものはないというものだと思います。では、一般的な空の理解はどうでしょうか。おそらく『空即是色・色即是空』に尽きるのだと思います。形のあるものと、形のないものは一緒だよねといったところです。それだけの理解では、それら二つの思想は全くの別物のように思えます。それなのにも関わらず、縁起と空は何故同じ真理の表現の違いと言えるのでしょうか。それを理解するために、それぞれの教えを、もう少し掘り下げてみたいと思います。

繰り返しになるかも知れませんが、縁起とは原因から結果へと辿る関係性とされています。つまり、それは時間の流れです。かたや空はどうでしょうか。空の思想において、空と色との関係は同時性です。状態は空であったり、時として色であったり、時間によって変化するのではなく、常に空であるのと同時に色でもあるのです。確かに、その二つの思想は、時間の流れと、無時間という、まったく別の思想に見えます。

縁起と空に共通する部分はあるのか?

それでは、次に、その二つの思想の共通するように見える部分を探していきましょう。もちろん、この記事は、二つの思想は同じであるということを結論とするですから、すべてが共通しているといえるのですが、一見して同じように見える部分です。それは二つの思想が、二つのものの関係性を語っているところです。つまり、その関係性が同じであれば、それらは同じあると言うことができます。しかし、今のところは時間の経過と、無時間の同時性という別々のものになります。

もう少し踏み込んで、二つの思想における、二つのものの関係性を考えていきたいと思います。先ず、空の思想における空と色の関係です。空は、サンスクリット語でスーニャと言い、数字の0を指します。0というと何もないことを想像しがちですが、仏教の場合はそうではありません。何もないのではなく、何にでもなり得ることをいうのです。このことに関しては、このブログの中の『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』と『無から有は生じるか③ -万物斉同・空と道-』という記事にもう少し詳しく書いています。

空を数字に例えたところで、もう少しその例えを引き継ぎます。……-2・-1・0・+1・+2……。0を挟んで、左右に+の数字と−の数字が並んでいます。0を空とするなら、+と−の数字は色です。数字の外側の……の部分はその数字がどこまでも続くことを表しています。色とは、この世に存在するすべてのもの、形あるもの、現象などです。そして、そこには+と−が端的に象徴する関係性が存在しているのです。それが相対関係です。色即是空の説明で、色と空をある種の相対関係として説明していますが、ここからは、色に含まれる+と−を相対関係として説明していきます。相対間は、向かいある花弁のように四方に広がっているのです。

維摩経と、不二法門

大乗仏教に、維摩経(ゆいまきょう)という経典があり、その中には不二法門(ふにほうもん)という教えが記されています。相反する概念は別々のものではなく、一つのものであると説いた教えです。つまり、そもそも不ニ法門の教えは、この世界を相対する二つのものとして捉えています。一つのものであるとするには、それ以前は二つのものでなければならないのです。そこには、二つのものの織りなす相対関係が存在しています。そして、不ニ法門の教えは、その二つのものは一つであると説きます。二つのものを分けている相対関係は姿を変え、二つのものを繋ぐ相乗関係とでもいう関係に変化します。そして、それが維摩経における空です。

それでは縁起の教えには、空の教えのように、相対関係を持つ二つのものは存在するのでしょうか。縁起において二つのものは、原因(因)と、結果(果)しかありません。それではその二つのものは、相対関係、つまり相反する性質を持つのかという問題です。その二つのものが相対関係を持つのなら、空の教えと縁起の教えが同じであるという結論に近付くことになります。

縁起とは、時間関係ではなく論理関係ではないのか?

確かに原因と結果は、相対関係を持つ二つのもののようにも見えます。始まりと終わりや、右と左、善と悪、男と女、自と他のようにです。ただ、空の場合と違うところは、原因と結果が時間軸上で、同時に存在しておらず対立することのないところにあります。時間軸において、原因の存在する時点で結果は存在しておらず、結果の存在する時点で原因は存在していないからです。その間を繋いでいるのが、縁起という時間的関係性です。それでは、この縁起から時間関係を取り除くことはできないでしょうか。

それは出来ると考えます。『無から有は生じるか⑤ -その鍵は、すべての扉を開くのか-』の中でも書いたことですが、唯識研究者である泉美治氏は、縁起に関して、「論理関係ではあるが、時間関係ではないのではないか」と仰っていました。「どういうこと?」と思われるかと思いますので、もう少し説明しておきます。

泉美治氏は、父と子を例に挙げていました。父と子の縁起を時間関係としてみると、先ず父が存在するから、子が存在するということになります。当たり前ではありますが、父が原因(因)で子が結果(果)になります。そして、その原因と結果の間に条件(縁)が横たわり、結果は一方通行の時間の流れの辿り着く場所です。父の存在は子という存在に影響を与えられますが、子という存在が父という存在に影響を与えることはできません。この関係に、空の思想が持つ対立物の持つ相対関係はありません。相対関係は、双方が影響し合うからこそ成り立ちます。相反しているにせよ、相対関係における対立物は、相互関係を持ち対等なのです。

しかし、泉氏は違った意見を提示します。その見解を理解するためには、論理的理解より直感的理解の方が必要になると思うのですが、彼は父が子を作ったのと同じように、父を作ったのは子であると言うのです。子供が父を産んだの?と思われるかも知れませんが、そう言うことではありません。子供が産まれた瞬間に、男は父になったのです。つまり、それまではただの男だった存在が、子供という存在が現れたことにより、父という存在に成ったのです。ここに一方通行の時間関係はありません。それどころか、それは完全に同時で時間関係すらありません。ただただ、論理的相互関係があるだけです。この関係の構造は、原因と結果にも当てはめることができます。結果が現れた瞬間に、原因は現れたのです。それらは時間の流れに関係なく、同時に存在したことになります。

言葉を超えるための表現の違い

そして、それらは必ず相反する意味を持ちます。何故、必ず相反する意味を持つのかということに関しては、二つという関係がもたらす構造的理由とだけ説明しておきます。詳しくは、『無から有は生じるか⑤ -その鍵は、すべての扉を開くのか-』をお読み下さい。ともかく、ここで龍樹の説いた空の思想と、お釈迦さまの説いた縁起の思想は同一の論理的構造を持つことになります。空においては相反する二つのもの、縁起においては原因と結果という二つのものが存在しています。そして、それらの中間に、縁起においては縁、空においては空が存在するのです。そして、縁と空は、それぞれ実体を持たない関係性とでも言えるもので、それも同一です。

根拠に乏しく、飛躍しているように思われるかも知れませんが、僕にはこの二つの教えは同じことを説いているのだと感じられるのです。違いは、ただ使用している言葉と、その言葉の違いを踏まえた説明の仕方の違いだけだと思います。つまり、縁起と空は、同じ教えの表現の違いに過ぎないと思うのです。そして、その表現の違いを乗り越えられれば、その表現の違いに囚われず理解できるようになれば、言葉を超えた教えの本質、仏教の伝えようとしている真理に出会えるようになるのだと思うのです。

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