一つ前の記事で、自分では気づいていない心の領域があり、それを知る方法として、投影を利用する方法を紹介しました。「他人は自分を映す鏡」というやつですね。投影という心の機能によって、他者に映し出された自分の無意識的な心の領域を知ろうとする試みです。ただ、無意識的な心の領域を知る方法は、それ以外にも様々あります。自身によって行われるそれらの試みは、総じて内観と呼ばれます。内観とは、自己観察であり、心の内側を見詰め、深めていく行為です。
内観とは何か?
ここで、僕は内観という概念を、かなり大雑把な括りで使っています。厳密に分類するならかなり細分化することが可能なようです。「〜〜なようです」という曖昧で間接的な表現を使っているのは、僕が内観を誰かから教わったりしたことがないからです。自分の方法論と、一般的に言われる内観を比較対象した結果です。つまり、ここで扱われる内観は、何らかの特定の立場を持つものではなく、「僕の考える内観」といった程度のものです。
そもそも内観は、宗教的、特に仏教の概念で、精神を集中し自分の心の中を静かに見詰め、真理や自己の在り方を観察する修行や実践のことだそうです。まあ、ざっくりと言うならその通りだと思うし、今回の記事の中ではざっくりの定義で良いと思います。細かなことを言うと、江戸時代の禅僧・白隠慧鶴が体得した健康法・修禅法としての内観や、吉本伊信が創始した心理療法としての内観法などがあるそうです。まったく詳しくないので、今回の記事では触れません。
それでは、ここで触れる内観とはどの様なことを指すのかということです。もちろん、心の内面を見詰めるということが基本です。ただ見詰めるという行為は、心以外の外側へ向かおうとするリビドー(フロイトではなく、ユングが定義した生命エネルギー全般)を、心にだけ振り向けることを指します。座禅を組んで身動きできない状態になるのも、同じようにリビドーを心に集中させるためだと思われます。
しかしながら、単にリビーを心だけに振り向けるだけでもありません。それでは、心に引き篭もっている病的状態と、何ら変わらないと言えます。ただ、それと違うのは、荒れ狂う無意識の波に翻弄される主体ではなく、無意識という心を観察する主体になるのです。つまり、体験主体ではなく、観察主体としての視点を持つのです。具体的には、「彼氏からの連絡が最近疎かになった。他に女ができたのかも知れない。問い詰めて、ハッキリとさせなければならない」と思い悩んだとしましょう。その時、その感情の渦に翻弄されてしまうのではなく、その思考と感情を観察するのです。
その役に立つのが、『らっきょうを剥く猿たちへ』という記事で紹介した、『その思考があなたのものであるということを受け入れる』ことです。あなたは問題解決するために考えを巡らせていると考えているでしょう。ただ、その思考自体を問題として扱うのです。もう少し説明します。あなたが友人との喧嘩を収めるためには、自分が謝るべきだと考えたとします。この場合、友人との喧嘩が問題で、自分が謝るというのが解決策です。それは解決策として是非実行して下さい。それでは『その思考があなたのものであるということを受け入れる』と、どう変わるのでしょうか。
『何故、わたしは、友達との喧嘩に関して、謝ろうと考えたのだろう』と考えることになります。友人との喧嘩が前提で。謝ろうと考えたことが問題になります。前提は何であっても構いません。『夕陽が悲しげで泣いた』でも良いし、『出世に負けて、悔しい』でも良いし、『学歴が惨めである』でも良いのです。ただ、問題は、常に『私』がそれを考えたということです。つまり、私が考えたという事実を手掛かりにして、私の心の内側に向かうと試みるのです。それによって、それまでは外側に向いていた関心を、心の内側の『私』に向けることになるのです。
内観は何をもたらすのか?
それでは、それによってあなたに何が起こるのでしょうか。それまでは経験したことのないタイプの、様々なことが起こるだろうと思います。その中で、最も多く起こるのが『気づき』です。それまで、無意識的にやり過ごしていたあなたの心の中の問題点に、次々と気づきが起こり始めることになるでしょう。あなたは、あなたの心の構造と状態を観察者の視点から知ることになります。もちろん、ある程度の心理学的知識は必要になるでしょう。それは、無意識の世界に迷ってしまわないための、地図が必要だからです。実のところ、無意識の世界は危険がいっぱいだからです。その危険性に関しては、後で書きますが、安全に、できるだけ遠く、深く、旅するためにはあった方が良いものです。
話を気づきに戻しますが、あなたが無意識の世界で気づいた内容は、意識化されることによって是正され、もう一度あなたの心にフィードバックされることになります。それが、問題点ならひとまず問題点の取り除かれた状態、それが新たな価値なら、その価値のとりあえず組み込まれた状態です。そして、その状態から更に内観を繰り返していきます。心の抱える問題の多くは改善され、新しい価値観は、それまでの人生観を大きく書き換えていきます。その結果、あなたの心は、初めには予想も付かなかった場所にまで運ばれていくことになるでしょう。そして、佇んだ見晴らしの良い場所から、進むべき新たな方向性を眺めることになります。この感覚は、ユングの個性化の段階や、レヴィ・ストロースのブリコラージュという概念にも似ています。
その結果もたらされるのは、本質的なあなたの人生です。それは、誰かから押し付けられた生き方ではなく、あなたの内面から溢れ出したものです。自分自身で自分の人生を生きたという濃密な実感を得ることができます。そして、到達点があるとすれば、それは真我としての『私』です。何故なら、私を中心まで辿っていけば、それがそこに実在しているからです。
内観の危険性
ここまで書くと、内観は良いことばかりだと感じられるかも知れません。しかし、そうとばかりは言えないのです。内観には、一定の危険性が存在しています。それは内観という行為に対する危険性ではなく、内観によって訪れることになる心の世界、特に無意識の領域に存在する危険性です。
禅にも禅病というものがありますし、妄想に囚われてしまって自我肥大を起こしたり、神経症や、統合失調症的な状態になることもあるだろうと思います。ともかく、心の世界は予測もできない危険で溢れていると考えて下さい。それは、危険に溢れた未開のジャングルを一人で彷徨うようなものです。安全性を重視するなら、熟練したガイドを雇うべきなのです。つまり、禅の老師の下で修行したり、心理カウンセリングを受けるなどといったことです。
しかし、危険を冒すからこそ、得るものが大きくなるのも事実だといえます。もしあなたに危険を冒してまでも、心の世界を訪れる必要があるのなら、それはあなたの意思によりもたらされるものではないのかも知れません。訪れざるを得ない状況、深い悩みを持ったり、心の病気を患ったり、あなたの意思では抗えない状況に陥ることで、あなたは心の世界に誘われることになるでしょう。何故なら、それが冒険だからです。冒険は、運命や使命によって導かれるものなのです。その代わりと言えば何ですが、ジャングルツアーでは手に入れられない本当の宝物を、内観はあなたに手渡すことになるのです。

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