禅とジブリという冒険

仏教

その冒険は、青サギの誘いによって始まります。

禅とジブリ展・概要

京都市京セラ美術館の東山キューブで開催されている、『禅とジブリ』という展覧会に行ってきました。

『禅とジブリ』は、ジブリのプロデューサーとして名高い鈴木敏夫氏と、禅僧による対談をまとめた『禅とジブリ』という著書を原点とし、ジブリ作品を通して、“禅的なまなざし”に触れることを目的とする展覧会です。

展示室の入り口では、青サギが出迎えてくれ、そこから順路に沿って通路を進みながら、展示物を観て行くことになります。通常の美術展のように、壁面に絵画などが展示されて、床面に造形物が展示されているものだと思い込んでいました。実際、東山キューブという展示会場は、だだっ広い四角い部屋です。広い会場を、わざわざ区切って使っているのですね。それによって、順路ができ、参加者は共通の時間経過を辿って展示物を観ていくことになります。

第1章:あっちの世界、こっちの世界

先ずは『君たちはどう生きるか』に出てきた『時の回路』を模したエリアを訪れます。数字の書かれた無数の扉のある回廊で、映画の中では様々な違う時間に繋がっていました。この辺のことに関しては、『君たちはどう生きるかを、どう読むか』という記事で考察をしています。時間のある方はぜひ読んでください。扉に記された数字の意味に関しては『君たちはどう生きるかを、どう読むか 7』で詳しく書いたつもりです。

『君たちはどういるか』の中で、扉は様々な時間軸に繋がっていましたが、この展覧会で扉はジブリの映画作品に繋がっていました。それぞれの映画のシーンが立体造形によって再現されて、各キャラクターの台詞が吹き出しのように添えられています。これが、結構な作り込みようで、見応えがあります。ジブリファンなら、一瞬にして作品の世界に引き込まれてしまうことだろうと思います。

そして、添えられている台詞は、禅的な要素を含むものが選ばれています。

例えば、ポニョでは「不思議なことがいっぽい起こって今はなぜなのかはわからない。でも、そのうちにわかるでしょう」というリサの台詞が添えられています。意味も分からないまま、それでも受け入れ、成り行きに任せるという態度が、とても禅的だと感じました。湯婆婆の造形には、「来ちまったものは仕方がない。お迎えしな!」という台詞です。覚悟とも諦めともとれる態度が、こちらも禅的だと感じます。

時の回路を進みながら、現実の世界から青サギの誘いにより、展覧会を訪れた観客は、自分の属している現実の世界から、摩訶不思議なジブリの世界と禅的な世界を、扉越しに垣間見ることになるのです。

第2章:お茶をどうぞ

狭まった通路が、少し広い空間に行き着き、バス停の造形が現れます。展覧会は、新しいエリアに到着したのが分かり、可愛らしいお家が目の前に現れます。

順路は、ポーチの階段を上りその家へと入って行くのですが、入ってしまう前に、お家の周辺を写真に収めることになります。写真を撮っていると、係員のお姉さんから、「トトロが現れましたよ」と声を掛けられ、示された方向に視線を向けると、中トトロが縁の下を歩いていくところでした。

実のところ、ここまでジブリを代表するキャラクターであるトトロは一切登場していなかったのです。しかし、ここからは、遠慮なくトトロが展示されることになります。

家の中に入ると、トトロとサギ男がお茶を飲んでいました。展示内容は、だいたいが『君たちはどう生きるか』の制作後日談や、絵コンテなどだったと思います。トトロとサギ男がお茶を飲むのも、『君たちはどう生きるか』の中で、キリコの家で、眞人とサギ男が喧嘩しながらお茶を飲み、「嘘つき」の話しをするシーンを模しています。

第3章:うまれるところ

可愛いお家の中を次の部屋へ移動すると、『うまれるところ』というエリアに入ります。鈴木プロデューサーと三人の禅僧による対談から生まれてきた言葉が展示されています。

禅語に、鈴木さんの絵やジブリキャラクターが描かれた、ジブリ禅画が展示されています。特に解説などはないのですが、禅とジブリが自然に融合していった印象を受けました。

ここでも、青サギとサギ男が見守ってくれていました。

第4章:それぞれの禅

ここからが、『それぞれの禅』というエリアに入ります。禅とは何か、禅にかかわってきた人々の生き様はどのようなものだったのか、禅に関する詳しい解説が行われます。このエリアで、ジブリ色はほぼ無くなったように思えます。ここで僕は、違和感を感じることになります。違和感の原因は、ここでの写真撮影が禁止されていることです。

写真撮影が、一部の展示でできないことは知っていました。ですから、撮影が禁止されること自体に違和感を感じた訳ではないのです。写真が禁止されるのは、肖像権や著作権に関連する理由だろうと考えていました。しかし、ここまでの展示で、撮影が禁止されることはなかったのです。ここでの展示内容は、インターネットで検索すれば出てくるような、公開情報がほとんどでした。「著作権や肖像権を理由に、ここの撮影を禁止するなら、ここまでの展示物の撮影を禁止した方が、よほど理に適っているのではないか?」と思ったのです。ここまでの展示は、それほど見応えのあるもので、オリジナリティに溢れるものばかりでした。ここまでの撮影を許可し、この展示の撮影を禁止する理由が本当に分からず混乱してしまったのです。

ちなみに、撮影が禁止されるのは、「それぞれの禅」の手前の「眞人の部屋」からになります。眞人の部屋は、「うまれるところ」と「それぞれの禅」の間にあり、どちらのエリアに属しているのかは分かりません。ちなみに眞人の部屋は、「君たちはどう生きるか」の中で、自らの意思で、眞人が石を使って頭を傷つけたあと、高熱を出して寝込んでしまうシーンで使われた部屋です。撮影が禁止されていることで「それぞれの禅」の始まりの部分のようにも見えますが、僕個人の感覚としては、「うまれるところ」と「それぞれの禅」のどちらにも属していない中間の場所、階段の踊り場のような位置付けに感じました。

第5章:この時代をどうやり過ごすか

このエリアが、今回の展覧会の最後になります。ここでは鈴木プロデューサーによる書画と、禅的メッセージが多数展示されていました。

ちなみにここでもジブリ的要素はほぼ無く、あるとすればトトロをオマージュした石灯籠ぐらいだったかと思います。

暖簾をくぐるとギフトショップに出て、展覧会はお終いとなります(サギ男のフィギュアを買えば良かった)。

観た終わった直後に感じたこと

展覧会を観終わって感じたことは「何だか、ジブリと禅がバラバラだな」ってことです。ジブリの世界を体験できるのかと思って行ったら、訳の分からない禅の話をされて帰ることになる感じです。ジブリと禅のパートがバラバラで、この展覧会を一貫して貫くテーマのようなものが欠けているって感じました。ジブリという人気コンテンツを餌に、鈴木プロデューサーの好きな禅の話しを押し付けられる、抱き合わせ商法のようだなって感じたのです。別なタイミングで行った知人も、ジブリの部分だけは観て、禅の部分は飛ばして帰ったと言っていました。

ただ、その感想を「それで良い」と、僕は断定できなかったのです。断定できなかった理由は、途中から感じていた『違和感』にあります。観終わった後も引きずられる、その違和感は、僕に結論することを許してはくれませんでした。

違和感に導かれて

禅とジブリ展を観終わった後、帰宅する自動車の中で、そして眠りに着くベッドの中でも、僕は観覧中に感じていた違和感について考えていました。何故、写真を撮ってもおかしくない状況で写真を撮ることが許されなかったんだろうという違和感です。そして、その理由が突然理解できた瞬間が訪れました。それは、「そうか、直接持ち帰ることはできないんだ!」という理解です。その気付きの後、バラバラだった断片は一つの冒険の物語となったのです。

ジブリ作品の多くは、主人公達が異世界を訪れ、そこで奇想天外な冒険を行い、成長して現実の世界へ帰ってくるという筋立てになっています。「千と千尋の神隠し」や、「君たちははどう生きるか」、「隣のトトロなどはその典型的な構成です。ジブリの物語が、そのような特徴を持つことは、展示物の中でも語られていました。そして、この展覧会で展示されている展示物を象徴として扱い、その物語構成に当てはめていけばより本質的な意義が見えてくるように思うのです。

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「あっちの世界、こっちの世界」では、扉の向こうに「あちらの世界」が存在すること知ることになります。ただ、その時点では僕達は「こっちの世界」から「あちらの世界」を見ています。

次の「お茶をどうぞ」では、家に入る手前で、中トトロを目撃することになります。他では一言も喋らない係員が「トトロが現れましたよ」と言うのには、単なる親切以上の意味があったのだと思います。やはり、係員さんは、僕達にトトロを見せたかったのだと思うのです。トトロを見ることのできる条件は何だったでしょうか。先ず第一に子供であること、そして第二に「あちら側の世界」に迷い込むことです。僕達が子供に戻ることはできませんので、あちら側の世界に迷い込んだことが条件になります。それ以降、僕達はトトロを何の苦もなく見ることができるようになるのです。トトロは、自分の居る場所が、こちらとあちらのどちらなのかを教えてくれる目印になります。つまり、「お茶をどうぞ」は、摩訶不思議な異世界に、観客が迷い込んだこと表しています。

「お茶をどうぞ」で一息ついた後、「うまれるところ」で、さらに異世界を楽しむことになります。それは想像力の源泉となるような心の深みです。そこで僕達は、禅の思想と出会い、この異世界での進むべき方向性が示されます。そして、「それぞれの禅」へ向かう手前で、「眞人の部屋」を通過することとなります。眞人の部屋は、日常の自分を投げ捨て、異世界において問題と向き合うための自分に変容を遂げる場所です。その部屋において、観客は核心に向き合う存在になるのです。深海に潜るために、潜水服を着込んだ状態と言えるかも知れません。

眞人の部屋を出てから、「それぞれの禅」に向かうまでの通路は、緩やかな傾斜を下ることになります。これは心のより深い部分、あるいは物語の深部へ向かうことを象徴しています。そして、「それぞれの禅」のエリアで、真理の探求者達と出会い、彼らの生き様や、思想に触れることになります。

最後に「この時代をどうやり過ごすか」を通過してから、現実の世界の日常に戻ることになります。このエリアは、現実の一歩手前と言えるかも知れません。異世界で獲得したものを整理する場所と言えるかも知れません。何故なら、そこにジブリのキャラクターは居なかったからです。そこにあるのはトトロを模した石燈籠なのです。それは石燈籠であったとしても、やはりトトロなのだと言えます。しかし、異世界で自由自在に冒険をしたトトロではないのです。

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つまり、この展覧会は、ジブリの紡ぐ物語の中に、象徴の力を使い、ダイレクトに飛び込んで、主人公として物語を体験する経験なのです。禅を押し付けられているのでも、展示内容がジブリと禅に分裂している訳でもありません。一貫して、僕達は異世界の冒険者だったのです。

その物語の主人公だからこそ、僕達は写真を撮ることができないのです。ジブリの映画や、その他の物語でも、現実の世界に戻った主人公は、異世界で起こった出来事をすっかり忘れてしまうことになります。「千と千尋の神隠し」でも、千尋は何か起こったようだという気配のようなものしか感じることができませんし、「君たちはどう生きるか」でも、現実の世界に戻った眞人が、塔の中の記憶を無くしてしまうことは、ザギ男によって知らされています。例え異世界で世界を救ったとしても、その栄光を現実の世界へ持ち込むことはできません。自我の思い通りにはいかないのです。その世界を支配する秩序はその世界のものであって、『私』は主人公であったとしても支配者ではないのです。

写真を撮って、この展覧会での体験を、日常の世界へ直接的に持ち帰ることができないのは、そのシチュエーションを表しているのです。

十牛図とジブリ

せっかく禅の関係する展覧会なので、禅にもジブリの物語のように異世界を旅する物語がないのかを考えていきます。もちろんあります。そもそも、物語はそれ程多くのストーリーパターンを持たないのです。元型的な次元まで、ストーリーを簡素化すれば、7つ程度に絞られると言われます。だいたいは、同様の物語の構造を持ち、違って見えるのはディテールの違い過ぎないと言われています。

禅で言うなら、それは十牛図です。十牛図とは禅の悟りに至るまでの心のプロセスを、牛を探す牧童に例えて、10枚の絵と詩(偈)で表したものです。十牛図に関してはこのブログでも『十牛図と英雄の旅』という記事で詳しく説明しています。その記事の中では、十牛図と英雄の旅を、等しい構造を持つ物語として比較しています。ここでは、十牛図と禅とジブリ展の構造を比較してみようと思います。

これは十牛図を順番に並べた図です。時間の経過を直線ではなく、円環にしているのには理由があり、この旅は個人一人に限定したものではなく、別な誰かへと引き継がれることで終わりと始まりがつなぎ合わされ、繰り返されることになるからです。

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尋牛(じんぎゅう)は、牛(悟り)を見付けようと志すがいまだ見付かっていない状況です。続く見跡(けんぜき/けんせき/けんじゃく)は、牛(悟り)を見付けるための手掛かりとなる足跡を見付けること。先人達が残していった経典や考案に触れることを指します。ここまでが『禅とジブリ展』では、『あっちの世界、こっちの世界』に当たると思います。扉の向こうに見るだけで、彼らの居る世界、つまり異世界をいまだ訪れてはいないからです。

次の段階が、見牛(けんぎゅう)です。修行の結果、本当の自己の片鱗を見ることを指します。ここで牛を探していた牧童は、自分の目で牛を見ることになります。つまり牧童と牛は、同じ世界に存在しているのです。これは係員さんに促され、中トトロを発見した状態です。つまり、中トトロを見ることで、僕達観客は、トトロの存在する異世界に自分が存在していることを知るのです。ちなみに見跡と見牛の間に、横線が引かれているのが分かると思いますが、その線より上が日常という現実の世界で、下が悟りの世界になっています。ジブリの物語では冒険の行われる異世界にあたります。何故、そうなるのかは、後で説明する英雄の旅に根拠があります。

得牛(とくぎゅう)、牧牛(ぼくぎゅう)、騎牛帰家(きぎゅうきか)は、悟りを得て、その悟りを自分のものにする状況を描いています。悟りを得たからといって、それだけで良いわけではありません。その悟りを自分のものとして乗りこなさなければならないのです。この3つの絵の、何処の部分が悟りの瞬間を描いているのかは分かりません。個人的には、得牛ではないかと思うのですが、禅では見牛の状態を大悟とするともいいます。『禅とジブリ展』では、眞人の部屋から『それぞれの禅』を表しているのではないかと思います。

十牛図は、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)と人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)へ続きます。ここでは悟りや、悟りの世界で得たものを次々と忘れていきます。そして、忘れていくことこそが悟りの完成でもある訳です。ここは『この時代をどうやり過ごすか』というゾーンに相当すると思われます。現実の世界への帰還の一歩手前の状況です。悟りが完成するところとも言えますし、悟りの世界を失う場所とも言えます。ここで、トトロは僕達と同じ存在ではなく、ある意味残り香のよに、別れの切なさを感じさせる石灯籠に姿を変えてしまっています。あの時のように、一緒に遊ぶことはもうできないのです。

最後に、返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)、入鄽垂手(にってんすいしゅ)へ続きます。返本還源は、元いた現実の世界へ戻り、ありのままに世界を見ることを指し、入鄽垂手は悟りを求め冒険の旅をした牧童が布袋と成り、人々を次の悟りへと導く姿を描きます。この部分は、展覧会の出口の暖簾をぐぐるところから、あなたの日常に戻ることを描いていると感じます。

英雄の旅

十牛図について解説をした『十牛図と英雄の旅』の中では、十牛図をより理解しやすくするために、英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)というものと比較しました。英雄の旅とは、英雄譚の元型と言えるもので、モノミスという理論によって導かれています。

ここにも円環が現れます。十牛図の円環と同じように、英雄の旅も始まりに終わりが接続されることにより、ある種の永遠性を獲得しています。そして、この円環は、神話的円環と呼ばれるものです。僕は記事の中で、十牛図の描く円環と、この神話的円環は同じものであると書きました。それでは、どの部分が同じなのかを、比較していきたいと思います。

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神話的円環に書かれている冒険への召喚は、十牛図では尋牛に当たり、救いの手は見跡と呼応しています。帰還は返本還源に当たり、霊薬は入鄽垂手を示します。神話的円環でも、円を横断する線が引かれ、この線は『冒険の境界』と呼ばれています。この線より上が日常の世界で、下が冒険の行われる非日常の世界、アビスと呼ばれる深淵です。この境界線より下の部分、十牛図の円環では悟りの世界と呼んだ世界のことです。この世界の最深部では、英雄の冒険において、確信的な出来事が起こります。聖婚であったり、父との一体化、霊薬の掠盗であったりします。これらは、英雄の旅の最大の目的です。十牛図の円環においては、悟りの獲得ということになります。

禅とジブリ展における神話的円環

それでは、今回の『禅とジブリ展』も、同じように神話的円環と比較対象することは可能なのでしょうか。こちらも図にしてみます。

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神話的円環の冒険への召喚と救いの手は、十牛図の尋牛と見跡と呼応し、『禅とジブリ展』では『あっちの世界、こっちの世界』に呼応ています。

神話的円環の帰還と霊薬は、十牛図における返本還源と入鄽垂手であり、『禅とジブリ展』では『暖簾の掛かる出口』です。

そして、中トトロの出現とトトロの石燈籠の間を繋ぐように、円環を横断する線が引かれているのが分かると思います。この線が、英雄の旅では『冒険の境界』と呼ばれる線になります。つまり、神話的円環と比較対象させるなら、中トトロの出現とトトロの石燈籠の間を繋ぐ線より上の世界が僕達の日常の世界。下の世界が冒険の行われる非日常の世界であり、アビスなのです。

『冒険の境界』を超え、現実の世界に戻って来た場所に『霊薬』と記されています。それは非日常の世界で獲得した秘薬を、多くの人に分け与えることを指します。十牛図の中でも、『入鄽垂手』において悟りの経験を次の牧童へ引き継ぎます。ここで少しだけ疑問が残るかも知れません。その冒険の深部(アビス)での経験は、そのまま持ち帰れないからこそ、この展覧会はジブリの冒険の旅足り得たんじゃないのかということです。確かに、その最深部での経験を、そのまま持ち帰ることはできません。ただ、そのままでなければ持ち帰ることはできるのです。

ジブリの冒険の旅で『霊薬』と『入鄽垂手』に対応する部分として、僕は『暖簾の掛かる出口』を配置しました。何故なら、それらは同等のものだからです。そもそも『暖簾の掛かる出口』とは、展覧会を終えてギフトショップに繋がる出口で、僕がそう呼んでいるだけです。そしてその暖簾の上、この展覧会の最後の最後に、鈴木プロデューサーの書が掲げられているのです。

そこには「この時代をどうやり過ごすか?」という、僕達に対する問い掛けが書かれています。僕達は、この問いに対する答えを、この展覧会を旅した経験から持ち帰ることになるのです。それは直接的なものではありまん。ただ、ジブリの登場人物達も多かれ少なかれ持ち帰っているのです。千尋は銭婆からもらった紫色の髪留めを、そして、眞人は下の世界で拾った積み木の欠片を持ち帰ります。

まとめ

つまり、『禅とジブリ展』を観に行った僕達は、様々な展示物を観ながら、ジブリの世界を旅していたのです。素晴らしい体験をさせて頂けたことに感謝します。そして、それは様々な冒険と変容の起こる夢の世界です。しかし、禅僧は言います。夢と現に違いはないと。それならば、この展覧会を体験した後の僕は言いたい。「ほんとだもん!本当にトトロいたんだもん!」と。

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