存在の不確実さと、有り難し

こころ

友人と話していて、「あたしの友達のリナが、何故、存在するものは、存在するのだろう。何故、あたしは存在しているのだろうと考えると気持ちが悪くなって、考えるのを止めたって言っていた」と言っていました。僕は毎日そんなことばかり考えているので、仲間ができたと感じ嬉しくなったのですが、結果的に、友達の友達であるリナちゃんは気持ちの悪さに耐えかね取り敢えずは考えるのを止めました。

まあ、そのリナちゃんは見た目の可愛い女性で、家族や恋愛にも恵まれ悩む必要もないような幸せな人生を送ってきました。さらにリナちゃん自身が、悩むような面倒なことを好まない性格でした。僕も友達の友達として随分前から関係を持っていました。そんなリナちゃんも、三十歳を越えるとそろそろ哲学的なことの一つも考えるお年頃を迎えた訳です。

今回は、リナちゃんの疑問に直接的な答えを考えることはしません。また、何かの用事で会ったときにでも話してみたいと思います。今回、この記事で考えたいことは、『考えるのを止めた』ということと『止めなかったら』ということについてです。

何故、考えを止めたのか

多くの方が同じような経験をしたことがあるのではないのでしょうか。気持ち悪いとまでは思わないにしろ、深い井戸の淵で、中を覗き込むのを躊躇うような感覚です。その中に何が潜んでいるのかは分からないにしろ、何かが現れそうな予感です。そして、確かに不吉なものしか現れないような気はします。理由は、覗き込んで目の前に見えるものが、まずは無意識だからです。無意識は意識の中に抱えておきたくないものを押し込んでおく場所です。見たくもないものを見せられる訳で、不快な感情を抱くのは仕方がないのかも知れません。

それに、その見ようとするものは、『何故、存在するものは、存在するのだろう。何故、あたしは存在しているのだろう』という自己の存在に対する根元的な問いに対する答えです。そして、その答えは獲得できなかったからこそ、問い自体を無意識の中に押し込んでしまっているのです。私が存在するのは当たり前の事実として、その穴に蓋をしてしまったのです。

しかも、その問いの結果もたらされる答えは望むものではないのかも知れないし、閉じていた蓋を開き、不安を世界に撒き散らすだけになってしまうかも知れません。あなたという、当たり前に存在していた存在は、確実性を手放すことになります。あなたという存在は根拠を失い不確実な存在へ変えられてしまうことになるのです。

止めなかったとしたなら

事実、あなたは偶然の連鎖によって存在する幻に過ぎません。そこに根拠はありません。あったとしても、存在しているという事実だけなのです。しかし、そのあなたという、あなたにとっての必然が、根拠のない偶然に過ぎないと知ってこそ、手に入れられるものがあります。それは、あなたという存在が奇跡的に存在し得ているという事実であり、奇跡的に存在している事実への『有り難い』という感謝の感情です。

『有り難い』といういう言葉は、本来仏教用語で、日常の『当たり前』とみなしている事実が実は奇跡的な縁による、有るのが難しいことであることに気付き、受け入れたその事実に感謝する心を言います。 「有り難い。有り難い」と言っておばあちゃんが手を合わせているのは、当たり前だと思っていたことが、実は仏さまの縁によりもたらされた奇跡的なイベントであることに気付き、それに感謝しているのです。

もしあなたが、リナちゃんのように自己の存在の確実性に疑問を持ち、いつの日が掛け替えのない自己が、偶然によりなりたっているに過ぎないことを受け入れられれば、あなたという存在は感謝と共に奇跡へと変わることとなります。それは、あなたを当たり前から奇跡の存在へと変えるのです。確かに、掛け替えもなく有り難い体験だろうと思います。在り来たりな今を奇跡へ変えるために、できる範囲で良いから、リナちゃんとあなたには不快な井戸を覗き込み続けてもらいたいものです。

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