私という混乱 ②

精神世界

ここまでは、『私という混乱 ①』という記事で、フロイト、ユング、仏教、ヒンドゥー教において、私がどのように定義されているかを見てきました。結果的には、それ程大きな差はないのではないかというのが実感です。この記事では、私とは何かということを再構築すると大風呂敷を広げましたが、実際のところは微調整程度で十分なのではないかとも考えています。

フロイトの言う自我はともかく(フロイトの自我はある種唯物論的です。私の心の実在に関して議論はなかったと記憶しています。在るものは在るといった感じです)、それ以外で、自我は概ね実体のない幻のようなものとして語られていると思います。ユング心理学ではコンプレックスの一つですし、仏教では縁起の法則が生み出す実体を持たない幻です。ヒンドゥー教では、プルシャ(アートマン)という不変の実体の周囲に降り積もった、常に変化する垢のようなものです。

仏教の自我

つまり、僕たちの考える自我は概ね実体のないもの、ないしは本質的なものではないとみなされています。それでは、私は実体のない幻のようなものと考えられているかというとそうでもありません。私という存在に実在性を与える何かは存在しています。それが、ユング心理学におけるセルフであり、ヒンドゥー教におけるアートマンです。

では、仏教は?というと、仏教には、永続する固定的な私は存在ないとされています。自我は幻であり、それを超える私も存在しません。実のところ、私は過去にも未来にも存在せず、存在していると感じられる現在ですら錯覚に過ぎず存在しません。それは、どこか唯物論にも似た虚無感をもたらします。永続する私はおらず、心に私という中心は存在しません。大乗仏教においても、せいぜい空があるだけです。しかし、それとて私という中心ではなく、幻であるという本来の状態を示しているだけです。下に図を描いておきます。

それでは、仏教以外はどうなのかというと、ユング心理学、ヒンドゥー教ともに中心を持ちます。ちなみに、ここで中心という言葉を使っていますが、幅のある意味で使っています。私であることの核心であるとか、より本質的な私というぐらいのニュアンスです。余り厳密に定義すると、いつまで経っても違いが残り、共通項は見出せません。それ以外の言葉も、多くは結束のゆるいイメージとして、幅を持たせて理解していただけると有り難いです。理由は同じです。

話を戻すと、仏教の示す私に中心が存在すれば、それは逆にユング心理学やヒンドゥー教と同じであるということになります。仏教に私が居ないとされる原因は、お経の中で一カ所だけ、「アッタ、つまりアートマンは、存在しない」と記されていることに由来していると聞きました。伝聞で申し訳ないのですが、三木悟という仏教学者で僧侶の方のYouTubeの番組で確認したことです。そして、三木悟さんは、その言葉の前後の文脈からみれば、「お釈迦さまは、自我を否定したのであって、アートマンまでは否定していない」と仰っていました。つまり、多くの部分でアッタ(アートマン)を肯定し、一カ所だけアッタ(自我)を否定しているというのです。

何故、そのような混乱が起こったのかというと、当時のインドでは、自我とアートマンが区別されていなかったからだそうです。これは、今も同じではないかと思います。ヨガ哲学講師である岡本直人さんと話していても、自我という言葉を使うとき、そこにはアートマンも含まれています。前後の文脈から、それがアートマンなのか、それとも心理学的意味での自我なのかを判断しないといけない場合があります。

確かに、勘違いが発生するのを防ぐという意味で、それは区別するべきなのかも知れませんが、本来、区別できないものだからこそ、ヒンドゥー教では区別していないのだろうとも思います(区別できない理由に関しては、いつかお話しすると思います)。そして、無我の教えが勘違いだとし、アートマンが私という心、ないしは存在の中心にあるなら、仏教のいう私の構造と、ヒンドゥー教の伝える私の構造は、大同小異ということになるだろうと考えます。仏教に、アッタ=アートマンが存在たらという図を載せておきます。

ユング心理学の自我

それではユング心理学の伝える私の構造と、他の構造とではどうでしょうか。もう一度、ユング心理学の私の構造の図を載せておきます。

ご覧のように、自我とセルフは明確に分けられています。セルフは自己と訳され、心の全体であり、中心で、真の私です。ユングは東洋思想に精通しており、アートマンからの影響を受けた概念だと考えられます。ここでは、セルフ=アートマンとして扱います。

しかしながら、図の中では自我とセルフの間を一本線の線が繋いでいるのが分かると思います。これが自我セルフ軸です。自我セルフ軸は、自我とセルフを繋ぎ、バラバラの概念をコンプレックスとして纏め上げ、自我を形成している元型としての力を伝えます。それは私を形成する引力のようなものです。太陽系をイメージしてください。太陽系を形作っているのは地球ではなく太陽の引力です。そして、太陽系として考えた場合、太陽と地球は別々な存在とみなすことはできません。引力によってそれらは一体なのです。

それでは、ユング心理学の私の構造を横から見るのではなく、上から見下ろしてみるとどうなるでしょうか。こちらも図にして載せておきます。

若干、恣意的に感じられるかも知れませんが、元々実体のないものをイメージとして表しているのでご容赦ください。セルフの周りを自我が丸く取り囲んでおり、このセルフをアートマンと置き換えれば、ヒンドゥー教の自我のイメージと同じように感じられます。

ヒンドゥー教の自我

それではヒンドゥー教の私の構造を、比較しやすいように、同様のイメージに書き直してみます。

これも真ん中にアートマンがあり、その周りを自我が取り囲んでいます。もう、三つの自我イメージは同一のものと言っても良いのではないかと思います。結局のところ、イメージの表現の仕方の違い程度の差しかないのではないかと思えるのです。ただ、その差に捕まって身動きできなくなってしまっては本末転倒だと思うのです。それぞれの構造の違いと、同一性を理解することによって、臨機応変な対応が可能になるのではないかと思うのです。

なんだか綺麗に締めくくれたように感じますが、実は次の記事に続きます。次の記事『私という混乱 ③』では、事例を挙げて、私の構造認識の違いによって、悟りと解脱にどのような結果の違いが現れるかを考えてみたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました