私という混乱 ①

精神世界

『私とは何か?』ということに関して、常々考えているのですが、これが言う人ごとに違う印象を受ける。要は混乱しているのです。そしてその混乱は少なくとも宗教的確信にブレを生じさせているように思えます。つまり、それは非常に困った問題を発生させているようにも思えるのです。そういう訳で、『私』というものの構造を、僕の分かる範囲ではありますが、統一したものとして再構築していきたいと思います。

多くの人にとって、『私は私、以上終わり』ということに終始すると思います。一般的にはそれで十分だと思いますが、心理学、哲学、宗教など、心の分野に分け入ろうとする人にとっては明らかにそれでは不十分かと思います。人間の心、少なくとも自分の心を探求するためには共通の地図が必要になります。

フロイトの私

通常、私とは意識的な自分、自我を指すと思います。いわゆる、『私は私、以上』の私です。通常は、それだけを私とみなしておけば十分だと思います。しかし、心の病気などを患った場合はそういう訳にもいきません。あなたの心があなたの言うことを聞かず、あなたに牙を剥き始めるのです。

心理学者のジークムント・フロイトは、無意識を発見しました。それは、我々が意識できない心の領域で、しかし、私であることに変わりはないのです。その発見以降、人類は無意識という未開の心の存在を知るのです。無意識は意識できない以上、他者のように感じられるかも知れませんが、それは私に含まれます。ここで、自我は意識の中心に過ぎません。

フロイトの考えた心のイメージ図を載せておきます。横線を境に、上が意識、下が無意識、自我は意識の中にあり、意識の何倍もの無意識の領域が存在しています。ちなみに無意識は自我によって意識できないと書きましたが、青年期の脅迫障害の患者は、無意識を意識することができると聞いたことがあります。あと、健康な人でも、何かの拍子で無意識の存在を気付きとして認識することはできます。それは、ある種の自己の拡大を感じさせることだと思います。

ユングの私

フロイトの発見した無意識という心の領域は、その後の心理学に引き継がれます。アドラーやユングです。ここではユングの考えた私というものについて見ていきます。もちろん、直接の弟子ですから、似ている部分もあります。しかし、決定的に違う部分があります。フロイトの後継者とみなされていたユングは、後に見解の相違により決別することとなります。そこでユングは、フロイトとは少し違った私のイメージを残しています。

共に簡単に描いた図ですが、フロイトの私のイメージと、ユングのイメージの間には違いのあることがご理解いただけるかと思います。ユングのイメージには、自我とは別にセルフの概念があるということです。セルフに関しては何度かお話ししたこともありますが、もう一度簡単に振り返り繰りたいと思います。

自我が意識の中心であるのに対し、セルフは無意識を含めた私の心全体の中心です。いくつかの重要なことがあります。セルフが私という心の中心であることにより、自我は意識の中心であったとしても心全体の中心ではなくなります。それでは自我は何なのかという疑問が生まれるかと思います。ユング心理学では、自我はセルフを元型としたコンプレックスだと言われています。

元型に関してはググってもらうとして、ここで使われるコンプレックスは、僕たちの思うコンプレックスとはかなりニュアンスが違っています。僕たちの思うコンプレックスは、足が短いとか、髪が薄いとか、不細工であるとか、特定の劣等感をコアにした感情の複合体です。しかし、本来は劣等感に限定はされません。自分ではコントロールできない強い感情反応や行動を引き起こす心の構造を指します。

通常、コンプレックスは無意識の中にあり、だからこそコントロールできないのですが、自我は意識の中にある唯一のコンプレックスだとも言われます。そして、そのコンプレックスの中心にあり、自我という構造を纏め上げているのがセルフになります。ともかく、自我はセルフという実体が生み出した幻と言うことができ、本当の私はセルフの方なのです。

仏教の私

仏教が私をどう扱っているのかについては、『仏教という勘違い② 諸法無我』でも書いています。これも繰り返しになりますが、こちらの方にも簡単に書いていきます。解釈や、宗派によっても違うのですが、概ね『私は存在しない。私がいるというのは、無知無明ゆえの勘違いである』とされています。

それでは、僕らが私と勘違いしているのは何なんだって疑問が湧くかと思います。分かったところで勘違いなのですからどうということはないのですけれど、それは五蘊の集合体であるとされています。じゃあ五蘊って何よ?ってことなんですが、五蘊とは、色(物質的な肉体や物事)、受(感覚)、想(概念やイメージ)、行(意思や心の活動、習慣的な行動)、識(物事や自分自身の存在を認識する働き)です。これらが縁起の法則によって寄せ集まって、私という錯覚を生み出しているのです。

でも、私という感覚はずっと連続してるじゃん。バラバラのものが集合しているだけなら、その場その場、一瞬一瞬で、私は違う私に入れ替わって一貫した私なんて存在していないはずじゃんと思われるかも知れません。しかし、この疑問にも仏教は答えを準備しています。それが、心相続という考え方です。心相続とは、心は一瞬ごとに変化するが、前の瞬間と次の瞬間が途切れることなく連続(相続)しているという考え方で、この連続性によって私という一貫性が保たれているように感じられるという思想です。

なんだか、私は存在しないと言いたいがために、無理矢理な屁理屈を捏ねている感じです。素直に私を認めれば楽になるのにって、気の毒になります。

ヒンドゥー教の私

ヒンドゥー教において『私』がどのように扱われているかを見ていきます。ここでいうヒンドゥー教とは、バラモン教や、ヴェーダーンタ、インド哲学という、インドの大地で、脈々と受け継がれてきた宗教哲学を指しています。僕の個人的な意見で恐縮ですが、ヒンドゥー教は、『私』の宗教と言えるのではないかと感じます。キリスト教は『愛』の宗教、仏教は『慈悲』の宗教などと呼ばれているのと同様に、その哲学の核心に『私』を含んでいるからなのです。仏教が『諸法無我』を説くのも、『私』なしでは成り立たないヒンドゥー教(当時はバラモン教ですが)との、差別化を図った結果ではないのかとさえ感じることがるのです。

それでは、ヒンドゥー教では『私』をどのように説明しているのでしょうか。これも仏教と同じように立場による差はあるのでしょうが、ヒンドゥー教でも私を細分化して説明しています。ここで記載する内容は、ヨガ哲学研究者の岡本直人さんから教えてもらった内容になります。先ず、ヒンドゥー教では私の構成要素を四つに分けます。そして、それは外側から内側へ、ないしは内側から外側へ、層を成しているようにイメージされます。

一番外側が肉体で、いわゆる五感を持った物質的なボディーです。その次がアストラル体で、感情や妄想のように比較的変化しやすい心になります。さらにもう一つ内側になると、メンタル体があります。これは、知性や理性など、理論的、合理的思考を指します。メンタル体は比較的変化し難い心です。そして、最も中心にあるのはコーザル体というものです。このコーザル体は私という存在の経験主体であり、私という個性を生み出してている源でもあります。いわゆるアートマンと、ほぼ同じものとみなすことができます。ただ、コーザル体は輪廻の主体ですので、個人としての資質を持ちます。それに比べ、アートマンは純粋に意識的存在、プルシャであり、万物共有の『私』です。まあ、コーザル体が、一皮剥ければアートマンといったところでしょうか。アートマンに関しては、また後でお話ししますが、これがヒンドゥー教における私の構造になります。

こうやって、様々に説明される私の構造を俯瞰して観ると、それはそれほど違っているとも思えないのです。せいぜい、入力する初期値の違いか、ボタンの掛け違い程度の問題なのではないかと思えます。それなのに混乱は拡大し、無理解と不寛容により手が付けられなくなるのです。でも、それは私という同じものを説明しているのです。違いは表現の違いに過ぎないはずです。次の記事・『私いう混乱 ②』では、私とは何か?ということをここまでに記した内容を参考に、再定義していきたいと思います。

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