このブログで政治に関する記事を書いてこなかったのには理由があって、政治に関して他人に話せるほど詳しくなかったからです。ただ、今回は少し腹立たしいことがあったので、記事にしたいと思います。ちなみに、僕の政治的信条は、自民党より少し右といったところです。
中道とは何か?
2026年の一月、立憲民主党と公明党が合併し新しい政党を立ち上げました。それが、中道改革連合という政党です。何らかの政治協力をするかもとは思っていましたが、政党を作ってしまうとは思ってもいませんでした。それまでは、与党と野党という立場で非難し合ってきたのに、節操のないことこの上ないと思います。もちろん、部分的に折り合いの付けれる政治理念や政策はあるのでしょうが、選挙で勝つための野合と言われても仕方がない状態かと思います。自民党と公明党との関係においては、これで完全に決別できたという感もあり、清々しくさえあります。
僕が腹立たしいのは(腹立たしいというより気持ちが悪いと言うべきかも知れませんが)、『中道改革連合』という政党名、その中でも『中道』という部分です。「えっ?そこに噛み付く?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、そここそが、今回の合併に関して、許されざる部分なのです。
政治的中道
そもそも中道とは、どういった意味でしょうか。政治の世界では、右(保守)にも左(リベラル)にも偏らない政治的態度、右と左から等しい距離をとった極端に走らない中間の政治的ポジションというように使われていると思います。もちろん、今回の合併に際しても、そう説明されていました。
しかし、公明党が中道という言葉を使うときは、その意味だけには止まりません。何故なら、公明党の支持母体である創価学会は仏教系の宗教団体だからです。そして、今回、新しい政党名を決める際に、中道という言葉の使用を強く希望し譲らなかったのは公明党の方なのです。
上座部仏教的中道
そもそも中道とは仏教用語なのです。苦行を続けていたお釈迦さまが、スジャータという女性から施されたミルク粥快を食べたとき得た知恵で、『快楽主義と苦行という、極端に偏った二つの生き方を捨て、その中間の悟りに至るための適切な道』という意味です。つまり、極端な二つの端から等しい距離を取った中間という意味です。
おそらく上座部仏教では、その通りの意味で捉えられていると思います。それは政治的に使われる中道と同じ意味ですし、儒教で語られる中庸の思想とも同じ意味だと思います。ただ、日本で信仰される大乗仏教に於いては、かなり違った意味で使われています。上座部仏教で使われる中道の意味から、大乗仏教で使われる中道の意味へ変化したのは、龍樹(ナーガールジュナ)の思想が元になっています。
中観派の中道
龍樹は、中観派という仏教学派の始祖で、空の思想を打ち立てました。その空の思想は、大乗仏教の大乗仏教たる思想的根拠となっています。
空とは何かということに関する理解は、非常に難解です。先ずこの世界は相対関係にある二つのものによって成り立っていると考えます。つまり、右が存在するのは、左というものが存在するからであるということです。そして、右と左は仮に存在しているように見えているだけであり、本質はそのニ辺の間を繋ぐ関係性の方なのです。ここで、中道の指し示すものは、位置ではなく関係性に変わっています。この関係性を空と言い、縁起と言い換えることもできます。
縁起は、お釈迦さまが悟りに際して観たビジョンであり、原因と結果の相互関係を言います。つまり、右と左、原因と結果、これらニ辺のものを成り立たせているのは、その間にある関係性であり、それが空であり中道なのです。そして、空の思想は、唯識論へ発展し現代の大乗仏教の基礎をなすこととなります。つまり、中道こそが大乗仏教における悟りの真髄であり、お釈迦さまの悟りそのものと言えるのです。
つまり、中道改革連合という政党名は、仏教の真髄と言える思想を看板に掲げる政治団体なのです。政教分離の原則はどうした?と思う訳です。片割れである立憲民主党は、自民党と統一協会の関係を責め立てました。そんな政党が、宗教信条を看板に掲げて政治を行っていても良いのか?と憤りを感じます。もちろん、彼らは右でも左でもない、偏りのない中間の位置という意味での政治的中道だと弁明することでしょう。もはや、そう言い続けるしかありません。
創価学会の中道
しかし、中道改革連合の元である公明党の支持母体の創価学会(ややこしい)の機関紙・聖教新聞ウェブ版(2026年1月16日)には、中道に関する説明が、創価学会教学部長・原田星一郎氏によってなされています。以下に引用しておきます。
『中道とは本来、“右と左を足して2で割った真ん中”というような、単純な折衷や妥協という意味ではない。もともと仏教にもある用語であり、広辞苑には「二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場」とある。つまり、二辺を離れ、いわば両者をも包含する正しい道ということであり、その意味でも中道は「道に中る」と読むべきである。仏教の創始者である釈尊は快楽主義と苦行主義という両極端を排し、中道に生きることを教えた。いわゆる「苦楽中道」である。これはほかでもない、釈尊自身の生き方でもある』
ここで説かれている中道は、中観派的なものです。ニ辺から等しい距離にある中間の位置ではなく、あえて大乗仏教的な関係性としての中道に限定されています。創価学会も大乗仏教に属する宗教団体なので、それは当然かと思います。
彼らの中道の気味悪さ
公明党は、長い間、一貫して中道を政治理念として活動してきました。そして、その中道の理念は、創価学会も宗教的目的の一つとしています。いや、支持母体の創価学会の目的であるからこそ、公明党の政治理念となり得てるのだと思います。そうだとするなら、中道改革連合の中道が、大乗仏教的意味での中道、創価学会の目指している中道を指していると考えるのは、ごく自然な成り行きなのではないでしょうか。
そして、ここが、今回の一件を、凄く薄気味悪く感じさせているところです。いつの間にか、誰にも気付かれず、宗教的理念を政党名に冠した巨大政党が誕生しようとしている。今回の合併は対等なものではなく、宗教理念を使った、宗教団体による、政党の乗っ取りではないのかという疑念です。立憲民主党のことは好きではありませんが、立憲民主党の政治理念は、創価学会の宗教理念に置き換えられてしまうのではないかという不安です。そして、それが一部の人間によりなされたという民主主義の否定に対する憤りです。
※
まあ、票欲しさの野合に対して、後援する創価学会員を納得させるための口実なのかも知れません。そう言っておけば、理念のない野合だったとしても、中道という創価学会の理想を体現するための苦渋の選択だったとして、理解が得れると判断したのかも知れません。何しろ、選挙に際して、多くの創価学会員をタダ働きさせるのですから、彼らが納得できる理由は必要になります。
立憲にしても、この中道とは、政治的意味での中道だと言っておけば、事なかれ主義の日本社会においては受け入れられ易いと考えたのかも知れません。そもそも多くの一般的日本人は、中道という言葉が、仏教由来の言葉であることを知りません。
まあ、どの道この合併は失敗に終わり数年後には、政党自体がバラバラになるだろうと思います。その時には、立憲、公明共に力を削がれ、より弱体化していることでしょう。気味悪がることでも、怒るほどのことでもないのかも知れません。将来訪れるであろう結果から考えれば、おそらくは「ザマァ見ろ!」とでも言ってやるべきことなのです。
一番腹立たしいこと
そうだとしても、やはり腹立たしい想いが残ります。僕が一番腹立たしいのは、お前らが中道の代表のような顔をするなということです。それは政治的中道(位置的中道)にしても、仏教的中道(関係性的中道)にしても同じです。政治的中道に関して言えば、立憲も公明も中道だとは思いませんし、仏教的中道に関して言えば、「その中道は、お前らの専売特許じゃない。仏教を代表するような顔をして、政教分離の原則を破るな」って思うのです。二千年の時間を貫き、光を灯し続ける教えに対して謙虚さを持って向き合って欲しいものだと思います。
どちらにしても、彼らに対しては、中道を名乗れるだけの立場にないと、やはり腹立たしい想いに駆られます。


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