前の記事・『仏教という勘違い③ 諸法無我とセルフ』では、縁起の法の間違いに関して考えていきたいと書きました。ここで縁起の法とはどういった教えとして伝わっているのか、もう少し詳しく見ていきたいと思います。
縁起の法とは
縁起の法は、お釈迦さまが悟りを開いたときに観たビジョンを元にしているといいます。すべてのものには原因と結果があり、あらゆる現象が互いに依存し合って成り立っているという相互依存の関係性を示す教えです。『此れ有る故に彼れ有り、此れ有らざる故に彼れ無し』ということが、仏教の経典に示されている縁起の基本原理で、原因があれば結果があり、原因がなければ結果もないという相互関係を表しています。ここまでは、僕も同意できます。しかし、ここからが理解に苦しむところなのです。
その相互依存関係を繋いでいるのが縁起なのです。つまり、原因から結果へ至る過程としての関係性を縁起と言っているのです。もちろん、そこに実体はありません。この考えは、「空」の思想にも繋がっていきます。「空」は、物事が固定した実体を持たないこと、つまり「無自性」を意味し、縁起の法に基づき、それをより深めたものです。諸行無常や諸法無我も、縁起の法と同じ論理で成り立つていると言っても過言ではないと思います。それらは、縁起の法を何にフォーカスさせているかというか、『シチューを作って、ホワイトソースが余ったからグラタンも作ってみた』みたいな感じなのです。
縁起の法だけで良いのか
僕は、縁起の法自体を否定はしません。確かに、その側面は、一面として正しいと感じています。しかし、それだけで良いのかとも思うのです。それでは、仏教は虚無でしかないと感じます。結果としての苦しみを取り除きたければ、原因である煩悩に影響を与えれば良いという理屈も分かります。そうだとしても、「苦しみを取り除けばそれで解決? それなら精神安定剤でも飲んでおけば良くない? 苦しみを感じている『私』が存在しないんだから、苦しみも存在しないなどと言われても、そんな空っぽの存在になんてなりたくない」と思うのです。
人は宗教に何を求めるのでしょうか? それは、自己の存在の不確かさから逃れ、永遠不滅の存在に自己を昇華させたいということなのではないかと思うのです。確かに、日本の仏教には浄土が恒常的なものだと説かれていることもありますが、この考えは仏教の日本化であろうと思われます。日本に古来から伝わる先祖の霊が暮らすあの世の思想が仏教化された、逆にいえば仏教が日本化されたのだと思います。やはり、原則的に、仏教は永遠不滅の存在を認めてはいないのです。
因果とは
それならば、縁起の法、そしてその思想の根幹を成す因果の法則に、別のアプローチを与えることはできないのでしょうか。つまり、原因と結果である因果を繋ぐ縁起の理解を変え、すべては関連性でり、非存在であるという考えを回避する解釈です。それができれば、縁起の法を基礎として成り立っている、諸行無常や諸法無我の考えに変化を与えることが可能なのです。つまり、縁起の法が勘違いであるなら、諸行無常や諸法無我にも、違う解釈を与えることができるのです。僕はそのような解釈が存在していると考えています。そして、そちらの解釈こそが、本来のお釈迦さまの悟りであると感じているのです。
縁起の法は、因果を発展的に捕捉するものです。因果の法則は、すべては原因(因)と、結果(果)によって成り立つという相互依存の法則です。 その相互依存の関係を捕捉的に説明しているのが縁起の法です。つまり、縁起とは原因を結果に変化させる過程としての関係性で、一方通行の時間の流れです。そして、これが仏教の限界であるとも感じます。仏教の教えは、時間の流れを超えることはできません。時間の流れの中で、過去は過ぎ去り、未来は訪れていません。途中経過としての関係性という非実体があるだけです。
実はこの縁起の法に関して、違う解釈を行なった人物がいました。このブログの記事、『無から有は生じるか⑤ -その鍵は、すべての扉を開くのか-』でも書いていますが、泉美治という方の仰っていた解釈です。泉氏は、在家の仏教徒で、禅を学んでいた方のようです。彼は、「原因があって結果があるというのは大きな間違いだ。原因と結果は時間的関係ではなく、論理的関係である。縁というのは、要因を原因に転化すると同時に結果を生む」と仰っています。かなり分かりにくいですが、具体的な例を挙げてくれていました。
原因と結果を時間関係に則して考えるなら、親子関係は親が存在するから子が生まれるのです。原因としての親が先に存在し、時間の経過によって、結果としての子が後で生じることになります。原因から結果に繋がる間の、出会って愛してチュッチュしてという偶然の連鎖という時間の流れが縁起です。時間的関係に基づいて考えれば、それ以外の答えはありません。しかし、泉氏はこの考え方を、西洋的思考の弊害だと断じています。
つまり、親は子ができた瞬間に、親になったのだと言うのです。逆に言えば、子は、人が親になった瞬間に子になったとも言い換えることができます。瞬間と言いましたが、この考え方に時間の流れは存在しません。完全な同時です。要因としての親子関係を転化した瞬間、原因としての親と、結果としての子が同時に発生するのです。つまり、縁起という時間経過としての関連性を必要とせず、原因と結果は同時に存在することになります。
縁起の法を回避するなら
縁起の法によるなら、時間の流れの通過点として、過去も未来も存在せず実体のない関連性だけがありました。しかし、泉氏の言うように論理関係を介して、原因と結果を繋ぐなら、過去も未来も同時に存在しているのです。そこには、何かが実在する猶予が生まれるようにも思えます。
原因と結果は同時に存在し、それどころか原因と結果は、過去と未来というような反発する性質を持つ相対的なものではなく、お互いがお互いの成り立つ根拠として、つまり『対』として分つことのできない一つの存在となり得るのです。『対』というのは、男性性が女性性の根拠であったり、女性性が男性性の根拠であるような、相互依存的な不可分の存在を言います。あらゆるものが時間の流れの中の関係性によって成り立つという無自生を廃し、なおかつ『此れ有る故に彼れ有り、此れ有らざる故に彼れ無し』という縁起の法の前提を満たします。これは不二の考えと同じです。
そして、この考えは、根本的な実在を想起させます。それは二つのものという相対関係を超えたところにある一者です。縁起の法による時間関係から解放されれば、親は子の存在する根拠であり、子は親が存在する根拠です。それは原因と結果という時間関係に縛られない、分つことやできない、一つのものとしての論理的相互関係となります。
そこに縁起の法が存在せず、因果が存在しているだけなら、ないしは少なくとも縁起の法と共存することができているなら、多くの認識は思い込みか、勘違いに変わります。諸行無常は現実世界に限定され、時間の流れから解放された永遠は、何処かに存在し得ることとなります。諸法無我は論理的根拠を失い、新たに現れた主体性により『私』はあると言うことが可能にもなるでしょう。そして、原因と結果は、時間の流れから解放された永遠の中で、相互関係に存在を担保する『対』として、一つの実在を語り始めることとなるのです。やはり、現在の仏教は少し勘違いされているのだと思います。その勘違いを正せれば、仏教は、おそらくもっと本来的なものになることだろうと思えるのです。


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