仏教という勘違い② 諸法無我

仏教

前の記事・『仏教という勘違い① 諸行無常』では、仏教という教えの勘違いに踏み込もうと試みました。先ずは諸行無常という教えで、この世の中に永久不滅のものは存在しないという教えです。それに関して、僕はその通りだと思っています。しかし、それでは『無常』という概念はどこから訪れたのでしょうか。無常なものしかないのなら、無常という概念が存在することはできないのではないかと考えます。つまり、常住なるもの、永久不滅のものは、諸行ではないどこかに、心理現象としてでも、比較対象として存在していなければならないと思うのです。

常在なる場所を探して

諸行無常が事実だとするならば、常在なるものは、形而上学的世界にあると言えるのかも知れません。仏教で言うなら、『諸法』です。諸法とは、万物、万法、万有とも言い換えられ、目に見える物質的なものだけでなく、私たちの心の中で起こる精神的な働きや、それらすべてに共通する法則も含みます。つまり、物理的実体持たないものをも含み、諸行より範囲が広まっている感じです。

永遠性は諸行を逃げ出し、諸法に逃げ込もうとする訳ですが、そこで無いとして存在を否定されているのが『我』つまり私です。諸行は無常で、諸法は無我な訳です。詰まるところ、何処にも、何も存在しません。一部宗派では仏性や真我を認めているところもありますが、大半はそういう訳ではありません。ここら辺が、仏教を虚無的で冴えない教えにしてしまっている要因ではないかと思えるのです。諸行無常、諸法無我には、根拠として『縁起の法』があるのですが、このことはもう一度後で触れます。とりあえずは、諸法無我について否定していきたいと思います。

諸法無我の我とは何か

それでは、仏教で、私はどのようなものとされているのでしょうか。五蘊(ごうん)が、一時的に束ねられ、あたかも確かな「私」のように見えているだけであるとされます。五蘊とは、色(物質的な肉体や物事)、受(感覚)、想(概念やイメージ)、行(意思や心の活動、習慣的な行動)、識(物事や自分自身の存在を認識する働き)です。これらが私という錯覚を構成している要素であります。つまり、私とは雲のようなものの集まりであり、実体を持たない錯覚であり、だから私は存在しないということなのです。

僕はこの考えを支持します。しかし、ここで否定された私は、そもそも『私』のすべてなのでしょうか。それは『私』を構成する要素の中の極一部に留まるのではないかと思うのです。五蘊であるというときに否定される私は、ただ自我に留まるのではないかと思っています。そして、ややこしいことに、何をして自我と言うか、自我に心理機能の何処までを含めるかということに関しても、立場によって多くの見解があります。ここでは、取り敢えず心理学的立場を採ってみようと思います。

心理学を少しでも齧ったことのある人なら、個人の心を解説した図を見たことがあるかと思います。丸い円があって、その円を横切るように線が引かれ、上側が意識、下側が無意識に分かれている図です。そして、その図の中では、自我は意識のある上側に小さな丸い点として描かれているだけです。ここまでの構造は、フロイトの心理学、ユングの心理学共に同じです。つまり、自我は『私』という心全体の極一部に過ぎないのです。自我だけを否定することにより、『私』のすべてを否定したことにはなりません。

確かに、唯識論では、私の構造をより緻密に分析しています。それが、八識という考え方です。八識では、人間の心を八つに分けます。AIさんによると、意識の表層に近い部分から、五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)、意識(第六識=五識で得られた情報などを統合し、判断する働き)、末那識(第七識=常に自分自身を意識し、執着する働き)、阿頼耶識(第八識=過去のすべての経験や業を蓄える、根本的な蔵識)ということです。

まあ、心理学に当てはめれば、意識が自我、末那識が個人的無意識ということでしょうか。それでは、更にその下にある阿頼耶識はどうでしょう。仏教に関係する人たちは、「阿頼耶識は、ユング心理学の集合的無意識の概念とほぼ同じものを表している!」と、あたかも八識が正しいことの根拠を得たように喜びます。僕も八識の説く阿頼耶識と、ユングの言う集合的無意識は、同じことを表していると思います。しかし、ユング心理学を引き合いに出すのなら、もう一つ『私』に関する重要な概念を知らなければなりません。その概念がセルフです。

セルフという『我』

それでは、セルフとは何かということなのです。セルフはユング心理学の中心概念の一つで、『私』のことです。英語で書くと『Self』です。ただし、このセルフは自我のことではありません。自我は、同じくセルフですが、『self』と書きます。同じように思われますが、自我の『self』は頭文字が小文字で、私の中心としての『Self』は大文字になります。ここから、ユング心理学のセルフを交えて諸法無我について考えていきますが、少し長くなったので、次の記事『仏教という勘違い③ 諸法無我とセルフ』に続きます。

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