仏教の教えは、ある意味間違っている、ないしは少なくとも勘違いされていると、僕は考えています。ある意味と書いたのは、仏教のすべてを間違いであると言うではなく、教えの一部分に対する解釈に関して、勘違いがあるということです。しかしながら、その教えは、仏教の教えの核心的な部分であり、そういう意味では仏教という教えの全体と言うことができるかも知れません。それらの教えは、仏教の仏教たる確信的根拠でもあるのです。
つまり、ある意味、僕は仏教全体を否定するつもりなのです。しかし、僕が否定するのは、お釈迦さまの伝えた教えや真理自体ではなく、後世に仏教という教団によってなされた『解釈』に対してであります。
三法印
その教えが何なのかというと、三法印に含まれる諸行無常と諸法無我、そして縁起の法になります。順を追って説明をしていきます。先ずは、諸行無常と諸法無我を含む、三法印に付いてお話をしていきます。
三法印は、仏教において三つの根本的な理念(仏法)を示す仏教用語であり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という三つの教え指します。これに一切皆苦を加えて、四法印とする場合もあります。この三法印の内の、涅槃寂静以外、諸行無常と諸法無我の解釈を、僕は間違いであると否定しようとしているのです。
否定しようとしているのは、教えそのものではなく、あくまでもその解釈なのですが、そうだとしてもそれは仏教の基本であり、仏教が他宗教とは違い、仏教である理由だと言えます。三法印ではなく、四法印だとしても結果は同じです。一切皆苦に関しても、その解釈に関して、僕は少し否定的に感じています。つまり、僕が否定しようとしているのは、仏教そのものだと言い換えることもできます。
仏教に対しての信仰を強めたい方は、ここから先は読まない方が良いかも知れません。ただ、僕がこの記事で伝えたいことは、『間違っているから仏教はダメだ』というのではなく、『間違いを取り払えば、仏教の本来の素晴らしさが見えてくるのではないか』と思うのです。
諸行無常という勘違い
誰しも一度は耳にしたことのある言葉だと思うので、諸行無常を説明する必要はないかとも思うのですが、念のために簡単に説明していきます。『この世のすべては常に変化し、永遠不変のものはない』という教えです。確かに、この物質世界に永遠不変のものはありません。永遠に生きれるものはありませんし、永遠に存在するものもありません。太陽だっていつかは消滅しますし、宇宙ですらがいつかは消滅すると言われています。そして、無常なのは諸行に限定されているのです。諸行とは、縁起によって起こるこの世の現象です。
この現象世界以外の部分でなら、永遠不滅なるものは存在し得るというわけです。何故、永遠不滅なものが必要なのかですが、無常が存在するためには永遠不滅なるもの、仏教用語を使えば常住(じょうじゅう)なるものが比較対象として存在する必要があるからです。つまり、常住なるものが存在するからこそ、無常という状態が定義できているのです。
一切皆苦という勘違い
ちなみに、一切皆苦に関しても、僕は同じ理由で否定的です。苦は苦のみによって成り立つものではないからです。もちろん、ここでいう苦も一般的にいわれる苦の認識と違っていることは知っています。一切皆苦の苦は、『自分の思い通りにならないこと』という程度の幅を持っている表現です。
ただ、苦は苦だけでは成り立たないと言ったように、この世界は相対的な価値によって成り立っています。すべてが苦である、苦であることが当然であると得心すれば、この相対的な世界で、それ以外の出来事はすべてが楽になるのです。あなたの人生が苦であったとしても当たり前、苦でない状態があったとしたら、それらはすべて楽なのです。そこまで考えれば、『一切皆苦』という教えは、苦しみに満ちる人生を、楽に転換させる為の魔法の言葉になるのです。
これが僕の思う一切皆苦という教えの価値です。ただ、この世のすべては苦しみであるというだけで終わってしまえば、『楽はどこに行ったんだ?』という疑問が残るだけなのです。
※
再び話を諸行無常に戻します。この世の中に永遠のものはありません。だからこそ、あなた達は、精神の世界、神々の世界、ある種の形而学的世界に永遠を求めるべきであり、本来、諸行無常とは、現実の世界から、形なきものの世界に意識の重心を移させる為の教えではないかと思うのです。しかし、ここで『諸法無我』という教えが立ち塞がってきます。次の記事・『仏教という勘違い② 諸法無我』では、諸法無我に関して考えていきます。


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