死ぬのが怖い人達へ

スピリチュアル
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 人は誰しも、死ぬのが怖いものです。中には、死恐怖症と言って病気のレベルで死を恐れる人も居ます。死を恐れることなんて誰もがそうなんだから、病気は言い過ぎだろと思われるかも知れませんが、どうやら日常生活もままならないほど、死が恐ろしいのだそうです。僕は死に対して余り不安を感じない方なので、そういう方の気持ちに寄り添うのは難しいと思いますが、今回は『死』について考え、少しでも『死』の恐怖から解放される方法を考えていきたいと思います。

死の恐怖はいつ生まれるか

 死の恐怖は、常に僕たちと共にあるように思います。ただ、それは先天的に備わっているものでしょうか。それとも、人生のいずれかの時期に、後天的に備わるものでしょうか。僕は、どちらもそうであると思っています。何故、そのような矛盾したことが言えるのかというと、死の恐怖には二種あると考えているからです。

 一つ目の死の恐怖は、生物としての死の恐怖です。これは生きている以上先天的に備わっているものだと思います。犬は死を知りませんが、他の動物から襲われたときは、闘うか逃げるかをして、自分の命を守ろうとします。人間の子供もそうです。物心がついたばかりで、まだ死を知らなかったとしても、危険が迫れば死を回避する行動を取るはずです。

 二つ目の死の恐怖は、死という観念を知って、その観念に対して感じる死の恐怖です。そして、人類を苦しめ続けているのは、こちらの方の死の恐怖だと思うのです。本能的な死の恐怖は死に隣接した時だけ発動します。しかし、死の観念がもたらす恐怖は生きている以上、永続的に我々を苦しめ続けます。人類は観念を使いこなす知的能力を獲得したために、避けられない苦しみも同時に背負い込むことになったのです。我々は知性を手に入れようとして、厄災の詰まったパンドラの箱を開けてしまったのかも知れません。

 ちなみに、死の観念は6歳から8歳で獲得され始め,9歳から10歳で逃れられないものとして認識されるそうです。僕は何人かの友人に聞き取りをしたことがあるのですが、半数ぐらいの人は、それくらいの年齢のときに、死んだらどうなるのかを考え、怖くなったり、答えが出ずに諦めたりした記憶があるそうです。僕も、そのくらいの年齢のときに、『僕が死んだら僕はこの世から消えるのか、でもそのときは、僕が消えたことを認識する僕も消えてしまっているのだから、僕と僕を取り巻く世界は存在するのか』と考えていた記憶があります。

死の恐怖がもたらす効果

 死の恐怖というと不快な印象しかないと思いますし、実際の所、個人的にはその通りです。ただ、人類の文化、文明というレベルで考えた場合、プラスの影響しか与えていないのではないかとさえ思えるのです。

 例えば農業の進歩なども、飢えて死にたくないという気持ちが原動力だと思いますし、生活を快適で効率的にする科学の発展もそうでしょう。医学の発展などはさもありなんと言うところです。宗教や芸術の発展も死から逃れ、永遠なるものに触れたいという想いが原動力になっていると思っています。

 もし、死に対する恐怖がなければ、そしてその恐怖を克服しようと踠かなければ、人類の進歩はなかっただろうと思います。それは、生きようとした結果だと言われる方もいらっしゃるでしょうし、確かにその通りです。しかしながら、生きたいということは、死にたくないということです。それはコインの裏表のように、同じことの表現の違いです。

 だからこそ、死を遠ざけることは、生きることを遠ざけることと等しい行為です。それならば積極的に死に向き合うことは、生きることと向き合うのと一緒です。『メメント・モリ』という有名な言葉があります。人はいつか必ず死ぬのだから、今を精一杯生きろという意味の言葉だそうです。生きることのコツは、きっと死を思うことなのでしょう。

死は存在しない

 それでも死は恐ろしいと仰られる方もいらっしゃると思います。確かにそれも当然でしょう。しかし、あなたは、あなたに訪れる死を、果たして見ることができるのでしょうか。いや、ないはずです。臨死体験でもしない限り、実際に自分の死を経験することはありません。あなたが死んだとき、あなたの死を認識するあなたは既に死んでしまっていて認識することはできないからです。そして、これはとても重要な救済になります。

 ギリシアの哲学者に、エピクロス(前341-前270)という人物がいます。エピクロス派の始祖であり、苦痛や恐怖から解放された、平静な心を追求して生きようとした人です。当然、苦痛や恐怖から解放されようとしたエピクロスは死に対しても自らの考えを述べています。

 エピクロスは死に対して、非常に主観的な視点から、主体的なアプローチをします。死ぬ本人からすれば、本人の死は存在しないということです。そして、その存在しないものに対して恐怖する必要はないという考え方です。その考え方を理解するためには、主体的に考えるというところが重要です。第三者の目から見れば、生きている人が、死んで死体として転がっているわけですから、あたかも死が存在しているように思えます。ただ、死ぬ本人は、死ぬときには死んでいて、自分の死を認識できないのです。つまり、死ぬ者からすれば、死は存在しないのです。

 ある人物が自殺を考え山に入り、テントを張りました。彼の考えた自殺の方法は、餓死することだったのです。そして、彼はゆっくりとした時間の経過の末に死に至りました。ただ、彼は死ぬまで長い時間、日記を書き続けたのです。そして、その日記の最後のページは『生きている』という言葉で終わっていました。ほどなくして、おそらく彼は亡くなったのです。死を渇望した人物が最後に確認したのは、皮肉にも『生きている』という事実でした。文字を書けなくなっただけで、それからもしばらく意識はあったのかも知れません。しかし、断片的な意識の中でも、彼が見たのは自分が生きているという事実だけで、彼は最後まで死と出会うことはなかったのです。

 僕たちは、他者の死を観察し、そこから獲得した死という観念を自分に当てはめ、その観念という架空のものに対して怯えています。主観的に考えれば、実際に存在している主体としての我々が、観念という実体のない幻に怯えているのです。それは、お化けに怯えてトイレに行けない子供のような、愚かな行為ということができるだろうと思います。

恐れているのは本当に死か

 もうそろそろ死の恐怖を克服してもらいたいところなのですが、それでも死が怖いという人もいるでしょう。そういう人は本当に死を恐れているのでしょうか。

 例えば信仰を持つことで、死の恐怖から解放される人がいます。多くの宗教では、輪廻の思想や、再誕の思想により魂の永遠を、括弧付きの場合もありますが、少なくとも保証しています。

 でも、何でそれが救いになるんだ? 後で復活できるにしても死んじゃうし、転生なんて一回どころか何度も何度も死なないといけないのにそれで良いんだ? 一回死ぬのも辛いのに何度も何度も死ぬなんて気が狂うかと思いきや、多くの人は輪廻の思想を受け入れることで、死の恐怖から解放されます。

 えっ? 死の恐怖って、結局、実際の死とは関係ないのかって思われるかと思いますが、確かに関係ないのだと思います。なぜなら、今回取り上げている死の恐怖は、生物として先天的に備わっているものではなく、死の観念に対する恐怖だからなのです。つまり、死の観念を認識した自己の感じる恐怖であり、自己が失われることへの恐怖であり、生命としての肉体がなくなることへの恐怖ではないからです。自己の消滅への自己の感じる恐怖が、死の概念を通じ死に投影されているのです。つまり、自己は、自らが無に帰すということが恐ろしいのです。

 しかし、ここでもエピクロスの思想はいまだ有効です。死を無に置き換えれば良いだけです。実際にエピクロスは死んだ後の状態を『無』と表現しています。エピクロスの言った言葉の『死』を『無』に置き換えれば良いだけなのです。

 無を恐れているのは、貴方が実際に存在しているからだ。貴方が無に帰したとき怯える貴方は存在しない。よって、無に帰すことを恐れる必要はない、ということです。

それでも死が怖い人に

 申し訳ありませんが、もうこれ以上、僕が力になることはできません。後は、あなたが、あなた自身で解決してください。

 科学は残酷にも、永遠という気休めを僕たちから奪っていくことでしょう。宇宙自体、僕たちが存在する空間や、時間すら永遠ではないことを証明されていきます。輪廻や再誕を否定するつもりはありませんが、否定せずともそれらは既に永遠ではありません。

 自己という僕たちにとっての掛け替えのないものが、止めようもないまま崩れていくことでしょう。ただ、それは僕たちが、既存の宗教を超えた真理に辿り着くための、助けになるかも知れません。死の恐怖が人類を推し進めてきたように、その絶望は僕らを更に先へ送り届けてくれるかも知れないのです。

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