『私』と、非二元について思うこと

スピリチュアル

 YouTubeなどを観ていると、非二元スピーカーなどと言われる人が沢山出てくる。非二元についてのお話をしてくれる人なんですけれど、結構な人々がブラウザ上に現れては消えていく。一人を観ちゃうと、同じ傾向の動画をYouTubeさんがどんどん勧めてくれるので、なかなか困ったものなのである。

 ただ、まあ僕もスピリチュアルの話は嫌いじゃないので、ちゃっかり観ちゃう訳だけれど、観ればそれなりに納得できるところもあれば、納得できないところも出てくる。納得できるところは彼らが『私はいない』と言うところで、納得できないところは彼らが『私はいない』と言うところです。こんな書き方をすると、僕の言うことに関しても『何だと?』と思うかも知れませんが、彼らと僕の間の、『』に関する理解が違うのです。

非二元に至るまでの思想的経緯

 そもそも非二元とは何なのかという話なのですが、観察する者と、観察される物は分離しておらず同じであるということのようです。そして、この考え方の大元はヒンドゥー教のアドヴァイタ哲学で、アドヴァイタ哲学とは、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ派の思想家・シャンカラが8世紀頃、インドで広めた思想です。日本語にすると不二一元論と呼ばれる思想で、それまでにもインドの聖典・ウパニシャッドに記載されていた梵我一如の思想を更に徹底させたものです。梵我一如っていうのは、宇宙の絶対原理であるブラフマンと、真実の『私』であるアートマンは一緒だよってことで、不二一元論の方は、そもそも別々な二つのものなんてない!ブラフマンしかない!っていうニュアンスの差かと思います(カタカナと漢字ばかりで読むのも辛いと思う。すいません。書いてる方だって辛いんです

 仏教でも、唯識論では、観る者としての主体と、観られる者としての客体は同じである。それらが一体となったとき真理に到達できると説くし、高野山の真言宗では、即身成仏を説きます。ちなみに、この即身成仏と即身仏は間違われがちですのでお気を付け下さい。即身仏は特殊な断食をしてミイラになることで、即身成仏は真我と大日如来は同じであることを体得することで、生きている内に悟りを開き解脱することを言います。この即身成仏の考えは、梵我一如と同じことを指しているのではないかと感じます。シャンカラは、仮面の仏教徒と呼ばれることもあるようなので、仏教の影響はかなり受けていたのだと思われます。

 非二元のことをノン・デュアリティーとも言います。まあ、日本語と英語以上の差はないですから特に気にしないでください。厳格な雰囲気を出したいときは非二元といい、ちょっと洋風の雰囲気でお洒落に演出してみたいときはノン・デュアリティーって言っているって理解で正解です。梵我一如や不二一元論が、非二元やノン・デュアリティーと言われるようになったのは最近のことで、トニー・パーソンズという人物辺りが始まりで、日本では大和田菜穂という女性が広めたようです。確か、阿部敏郎というスピリチュアリストが大和田菜穂さんを随分と推していました。

非二元スピーカーの主張

 結果的としては、非二元スピーカーと言われる人が量産されるようになります。彼らの主張は簡単で、何の知識や資格も要らず、誰にでも話すことができます。簡単であるということは聞く方にとっても重要で、容易く内容を理解でき自分の感じている苦しみから救われた気分になることができるからです。

 彼らの主張を要約すると、『私とは二元的分離がもたらす錯覚で、実際には存在しない。だから、私が感じている苦しみも存在しない』ということだと思います。実のところ、僕もその考えには多くの部分で同意します。記憶が定かでなくて申し訳ないのですが、本当の自分(プルシャという言葉が使われていたかも)と、悩み苦しむ自我が同一化されることにより『私』は苦しんでいるという実感が生まれる。しかし、苦しんでいる自我は錯覚であり実在しないものであるから、本当の自分は苦しんでいない。つまり、苦しみは存在しないと言われていたのを聞いたことがあります。

 全くもってその通りだと思います。ただ、それを腑に落とし確証を持つためには、本当の自分を体験として知っていなくてはいけないと思うのです。本当の自分を知らずに、幻の中で本当の自分を空想し、その空想を本当の自分だと言い聞かせる。それでは、まるで夢の中で夢を見ているようなものだと思います。そして、夢から覚めないように、現実を都合よく解釈しなくてはならなくなります。それは時として、自分に対する嘘か勘違いである可能性をも孕んでいます。

 ある非二元スピーカーの方は、思考はただ沸いているだけだと言っていました。自分とは関係のないものなのだから、思考自体を無視して放っておけば良いということなのだと思います。確かに、心底そう思っていれば、思い悩む必要はなくなるでしょう。そして、確かに究極的な意味では、その考えを否定はしないし、同意さえします。真我から見れば、思考など水面を揺らす波のようなものです。水という実態を持つものではありません。ただやはり、現実の世界でいる者からすれば、それはとても無責任で、幼稚な言動に思えます。

 また別の非二元スピーカーの方は、苦しんでいるという相談者に対して、苦しんでいる『私』が存在しないのだから苦しみもないと言っていました。確かに一理あるとは思います。その後も、『私』が存在しないということに納得できない人々に、『何で分からないんだろう』と言っては取り合う様子もありませんでした。とても不寛容で軽率な態度だと思いました。不寛容であるというのは、自分の見解を保持するばかりで相手の立場に立とうとしないことで、軽率というのは自分の理解していること以外を検討しないことです。

 これは両者の非二元スピーカーに共通することだと思うのですが、彼らは『私』というものを、自我としてしか認識していないのではないかと思えるのです。自我は心理学でも心の一部、自我コンプレックスといって、コンブレックスの一種とされています。その自我だけを私と断じてしまうのは、あまりにも軽率で思慮が足りないと思うのです。私の無意識は私ではないのか。私は居ないと認識している意識は私ではないのか。真我がブラフマンであるとして、ブラフマンは真我ではないのか。真我とは私ではないのかなど、考えるべきことは幾らもあるし、それを考えず答えとしているのは安易で、当人にとって都合が良過ぎると思うのです。それらに関して、もっと真摯に考えるなら、もっと違った答えを返して上げられるはずだとも思うのです。

仏教における『私』の違和感

 少し話は逸れるかも知れませんが、僕は仏教の無我という思想に違和感を感じています。それは僕の勉強不足が原因なのかも知れないことを断っておきますが、仏教における無我がとても無理のある考えに思えるのです。私というものは縁起の関連性の中で発生し、縁起は関係性という実体のないものであるから、私にも実体が存在しないという説明は理解しています。しかしながら、それによって否定できる私は、〜〜は私であるという概念に過ぎないと思うのです。それは、おそらく自我は私ではないという否定と同じ程度のレベルの浅さです。お釈迦様は本当に、無我を解いたのでしょうか。

 仏教学者の中村元さんは、『無我というのは、非我を漢文に翻訳したときに誤訳したものだ』と日本中の仏教徒がずっ転けるようなことを仰っていました。つまり、お釈迦様は『これは、私ではない』ということを仰ったのであり、『私は無い』とは仰っていないのです。日本人にとって無我という考えが何か響くところがあったのは認めますが、ただの翻訳の間違いを多くの僧侶や信者は後生大事に伝え続けてきたのです。そして、その間違いに整合性を持たせるために、仏教は難解に改築されていったようにも思えます。

 非我についてもう少し話していきます。非我と同じような考え方をする思想に、道家があります。道家では、根本原理あるいは実在といえる『道(タオ)』を説明するとき、〜〜は『道』ではないを繰り返し、『道』の輪郭を浮かび上がらせようとします。それは単に『道』が言葉では説明のできない。それとしか言いようのないものだからです。つまり、言葉を超えた次元の存在を説明しようとするとき、それ以外のものを否定することでのみ、それを説明し得る可能性があると考えるのです。

 僕は非我もまた同じ試みだと思っています。お釈迦様は『私』を否定はしていません。ただ、私を浮かび上がらせるために、私以外のものを『これは私ではない』と否定していっただけです。そして、その否定されるものの中には、僕達が私だと勘違いしていたもの、つまり自我なども含まれていたというだけの話です。つまり、無我は概ね勘違いで、非我は、言葉を超えた崇高な『私』の在処を指し示しているのです。

続く

コメント

タイトルとURLをコピーしました