『私』と、非二元について思うこと 2

スピリチュアル

※この記事は、『私』と、非二元について思うことの続きになります。よろしければ先にそちらをお読み下さい。

 ここまで非二元という思想と、『私』に関して話してきました。つまり、非二元スピーカーという人が安易に『私』を否定していること、彼らが否定しているのは自我という表面的な私に過ぎないのではないかということ、仏教でも私は否定されておらず、私以外のものを『それは私ではない』と否定することにより、不可知な私を浮かび上がらそうとしているということです。

 そうであるなら、その不可知な『私』とは何なのかという疑問が浮かんでくるのは当然だと思います。ただ、それは不可知であることが前提なのですから、完全に答えることはできないということをお断りした上で踏み込んでいこうと思います。まあ、ここからは答えられないことに答えようとした試みの残骸程度に思っておいてください。

心理学が説明する『私』

 『私』を心に限定するなら、心理学が行なっている説明を参考にするべきでしょう。心理学者のフロイトは無意識を発見し、心を意識と無意識に区切りました。そして、その意識の中に浮かんでいるのが自我です。ユングになるともう少し説明は複雑になります。ここで分かってもらいたいのは、自我は心の一部に過ぎないということです。そんなことがあり得るのかは知りませんが、自我がなくなったところで、あなたの意識は残ります。

 例えば非二元スピーカーが言うように、思考はただ沸いているだけだとして、その沸いてくる源泉は私の無意識でしょう。そうだとすれば、ただ沸いてくる思考を、他人事とするのはやはり無責任に思えます。また、別な非二元スピーカーが言ったように、私は居ないのだとすれば、私の意識や無意識は存在しないのでしょうか。フロイトの弟子に当たり、後に決別したユングも心の構造を説明しています。ユングは心の中心にセルフというものの存在を仮定しました。英語ではSelfと頭文字を大文字で書いて、日本語に訳すと自己のことです。非二元スピーカーの方々は、自己すらを私ではない、もしくは存在しないと言うのでしょうか。

 ユングは東洋思想にも造詣が深かった人物です。セルフという概念の発想は、真我、アートマンから得られていると思います。そして、これはユング自身が言ったことか、その弟子が言ったことだったのかは忘れましたが、自我とセルフの間には自我セルフ軸(Ego-Self axis)というものがあって、自我とセルフを繋いでいるとも言っていました。僕はその自我セルフ軸が、自我とセルフを繋いでいると同時に、分離しているとも考えています。そして、その自我セルフ軸が崩れ、セルフの中に自我が落ち込み、それらが一体になった状態が『悟り』であるとも言っていました。このことに関しては、また後日説明してみたいと思います。

 ここで、彼ら非二元スピーカーが、一時的ではあるにせよ経験した悟りの状態から語っていると仮定します。確かに、非二元スピーカーは、自分が過去に悟りを得たと言っており、そこから得たメッセージを伝えているとも言っています。それでは、彼らの言っていることが、『悟り』という究極的な状況に限定すれば正しいのかを考えます。

 結果から言えば、正しいとも言えるし、正しくないとも言えると思います。ここが前の記事で、『納得できるところは彼らが『私はいない』と言うところで、納得できないところは彼らが『私はいない』と言うところです』と書いた所以です。つまり、自我という『私』はセルフと一体となっていることで『居ない』とも言えるし、一体になっているだけで『居る』とも言える。そもそもセルフ自体が自己なのだから『私』と言えるものです。私が私と一つになっているだけだから『すべてが私である』と言ってしまっても構わない。限定するのがおかしいと思うのです。

『私』とは何か?

 セルフは真我であり、アートマンであり、梵我一如の思想によりブラフマンでもあります。確かに、宇宙の根本原理たるブラフマンを、とても『私』だと思うことはできないでしょう。それは、自我からすれば、他者として映るはずです。しかし、梵我一如の思想とユング心理学により自我とブラフマンは同じであるという等式は成り立ちます。ただ、僕も自我には実体のないことを認めています。実体のないものと究極の実体が同じとはどういうことか、どうすればそんな飛躍した理屈が成り立つのか、もう一度『私』とは何かを考えていきましょう。

 そもそも『私』とは何でしょう。僕は認識する主体であるということを『私』だと考えています。そして、認識される客体がアートマンです。主体と客体は、相反する二元的存在です。ただ、反対の性質を持つものの根源は同じものです。それはただの方向性の違いと言えます。右と左は根源を辿れは同じものだし、男性性と女性性は人間性と言う中心の左右だし、善と悪は分別によって分けられる前は一つの出来事です。

 更に言うなら、分けられる前は全てが一つの現象でした。右が現れる前は左は存在しなかったし、左が存在するのは右が存在しているからです。そうだとするなら、『私』は主体であるために分離されたアートマンです(ただ、アートマンは二つに引き裂かれた訳ではありません。人間の右半身、左半身という相対的二元性ができたからといって、体が引き裂かれる訳ではないのと同じです)。そして自我は、認識する主体としてのアートマンが、認識の結果身に纏った私の仮面です。

 認識するためには分離が必要で、認識するための主体であるということが『私』であるということなのです。ここで発想が逆になっていることにお気付きいただけますでしょうか。私が居るから認識するのではなく、認識するために私が要るのです

 もし、私ではない誰かが何かを認識したとします。それは、他人が認識をしたという私の認識で、結局は私が認識をしているのです。もし、誰かの立場に立ってみるなら、それは誰かという私の認識に過ぎません。つまり、認識するということは、私によってしか成し得ないのです。認識するために、アートマンは主体になったのだと思います。そして、アートマンはそれぞれの資質と経験に見合った自我という仮面を纏い、僕たちという個人になった。それでも、非二元スピーカーの方は『私』は居ないというのでしょうか。

 アートマンはブラフマンなのですから、そうも言えるのかも知れません。何度も繰り返しますが、個人の数だけある主体としてのアートマンを目の前にして、宇宙の絶対真理として唯一のものであるブラフマンと同じとは見なし辛いとは思います。ただ、僕たちは他人の『私』を経験したことはありません。主体であるということは、同時に個人であるということです。僕たちはアートマンの仮面を眺め、その仮面はそれぞれ違うと感じることしかできません。ただ、アートマンが仮面を外し素顔を晒せば、それらはすべて同じ『私』なのかも知れないのです。そうであるとするなら、個人という立場に立脚する僕達は動揺を禁じ得ません。しかし、いくら動揺したところで、そうでないとは言えないのです。

 長々と書き連ねてきましたが、非二元スピーカーの方に言いたいのは、何を『私』と定義するかによって、『私は居ない』とも言えるし、『私しか居ない』とも言えるのです。僕個人の実感としては『私しか居ない』と言った方がより自然ではないかと感じます。そう言えば、お釈迦様は『天上天下唯我独尊』って仰いました。それは、究極的に他者のいない世界です。『私』しかいない世界なんです。そして、それだけが、おそらくは尊いのです。

 

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