煩悩と苦しみと、例えば夢見る人々へ

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 煩悩があると苦しみが生じるとは、良く言われることです。それでは、煩悩とは何でしょう。そして僕たちはそれとどう付き合っていけは良いのでしょうか。

煩悩と苦しみ

 一般的に、煩悩とは、性欲や食欲、物欲が挙げられると思います。例えば、『あのブランドの服が欲しい。でも、買えない。苦しい』といった感じです。それを欲しいままだと苦しみは続くし、買ったとしてももっと良い服が欲しくなり苦しみは増します。一般的に低俗と言われるような欲望に限定されるように思われますが、煩悩は欲望全般とその欲望に執着する心全てに当てはまります。

 お坊さんは全力で否定するそうですが、悟りを開きたいと思う気持ちも煩悩だと、僕は思っています。悟りを開きたいと望んでいる以上、悟りを開けていない現在は不幸せであり苦しみです。ただ、悟りの場合は一度悟ってしまえばどこまでも執着するということはなさそうなので、煩悩には当たらないのかも知れませんけれど……。

 例えば、高学歴で高収入の彼氏が欲しいというのも煩悩です。彼氏が居ない人は、そんな彼氏が居ないことに苦しむでしょうし、できた彼氏が理想の彼氏ではなかった場合は、理想とのギャップに苦しむでしょう。そして、理想通りの彼氏などいるわけもなく、理想に執着すればするほど苦しみは増します。

 例えば、株で儲けたいと思ったとします。儲けられない時は苦しいでしょうし、儲けたとすればもっと儲けたくなって苦しいはずです。もしかすれば、儲けた一瞬は幸福感を感じるかも知れませんが、結局のとことろ苦しみはいつまでもついて回ります。

 つまり、儲けたいという欲望が原因で苦しみが起こっているのであり、決して儲けられていないという状況が原因で苦しみが起こっているのではないのです。苦しみの原因は、儲けられないという現状にあるのではなく、儲けたいという欲望にあるのです。確かに、欲望を持ちそれに執着すれば、そしてそれらが大きければ大きいほど、もたらされる苦しみは大きくなり、避けられなくなりそうです。

 ともかく、何らかの欲望を持ちそれに執着してしまうと、それはもはや煩悩と呼ばれるわけです。その苦しみから逃れるためには、苦しみの原因である煩悩をなくすということになるだろうと思います。しかしながら、欲望を持たず生きることは社会生活を営む現代人には難しそうです。そして、例え苦しみをもたらすと分かっていても、執着すべき欲望はあるのかも知れません。

例えば夢見る人々へ

 例えば、夢を持って生きることは素晴らしいことだとされています。その通りだと思いますし、僕も夢を持って生きてきました。ただ、自分の将来に夢を持つことこそ、煩悩の最たるものではないかと思います。それは自分の人生という、自分にとって最も重要で価値のある避けれないものと分かち難く一つだからです。

 自分の将来に夢を見て、その未来の姿を本来の自分と信じて生きても構いません。ただ、その時は現在の自分は本来の自分の姿ではないと否定され、苦しみを感じることになるでしょう。夢に挑戦し続け、前進している充実感を感じることもできると思いますが、同時にそれは夢を叶えていないという証でもあります。つまり、自分の人生を通して、苦しみを背負うことになるのです。

 それでも良いと思うのです。夢をみれば必ず苦しみに出会うという心の構造を理解し、その苦しみを受け入れる覚悟を決めれば良いのです。苦しみ続ける覚悟を決めて、夢を抱けは良いのです。

 お釈迦さまは「人生は苦しみである」と説きました。素晴らしいメッセージだと思います。人生の全てが苦であるとすれば、苦しみでない時は楽になるのです。ただ、苦しくなかっただけだとしても、それは幸福になるでしょうし、少なくとも苦は不幸ではありません。

 夢を抱いた結果苦しみに満ちた人生を生きることになったとしても、そして夢が叶わなかったとしても、それは大した問題ではありません。あくまでも人生のあるべき姿で、人生を貶めるマイナス要素ではないからです。つまり、それは不幸な人生ではなく、人生なんてそんなものなのです。苦しみの状態が標準であるなら、幸い何があっても損はしないですから。

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