始まりの記録

精神世界

 ちょっと僕の話を聞いてほしい。僕がブログを書くにあたって、特に精神世界の問題に関してはベースになっている体験があります。その内容を知ってほしいと思う気持ちはありませんが、伝えておいた方がフェアではないかと思うのでここに書いておきます。

 一度目の体験

 一度目は小学校五年先生で、父と一緒に奈良県にある大台ヶ原に登り、眺めた景色の美しさに心を打たれたときです。 その美しさと自分という存在を比較し、自分という存在の小ささと稀薄さに猛烈な焦燥を感じました。その焦りと怯えを何とか解消しなくては自分という存在が立ち行かなくなると感じ、僕はその方法を探しました。 

 直ぐに思い浮かんだのは、その美しい景色を『自分の物として所有すること』でした。 ただ、所有という方法では、価値という本質を自分の存在に組み込むことができない。 つまり、焦燥を解消することが無理であるということも直ぐに理解できました。 

 しばらく、葛藤を抱えたまま景色を見ていた僕に不意にアイデアが浮かびました。 それは『景色を見詰め美しいと感じている僕が居るから、この美しい景色は存在している。この景色を存在させているのは僕である』という、事実でした。 

 そこに見詰める者と、見詰められる物という、相対的な区別はなく。僕は景色を見詰めながらも、見詰められている景色そのものであり、その景色を構成する草木の一本でもありました。 全身からエネルギーのようなものが無尽蔵に溢れ出し、僕はそのエネルギーでもありました。 世界のすべてが僕であり、世界は観念というフィルターを通さず、山はただ山であり、木はただただ木でした。 存在しているという事実だけでこよなく心地良かったことを憶えています。その心地よさはその後も数日続きました。 その体験を経て、僕は初めて、世界の中に生まれ出たと感じました。 

 その後、僕の生活が何かが変わったかいうとまったく変わらず、変わってないのかと言えばすべてが変わってしまいました。 物事の積み重ねによる連続性を持った変化ではなく、芋虫が蝶に変わるような存在としてのレベルの変化でした。 その後、神や真理に関して考えるようになり、その体験をもう一度体験したいと枯渇するようになりました。 

 二度目の体験

 二度目の体験は、二十四才のときです。 当時は、交通事故の後遺症に悩み、非常に内向的で、精神的に病んでいたように思います。 

 絵を描いていた僕は、自分の部屋でぼんやり寝転がり、額に意識を集中し、色を思い描こうとしていました。 その時、不意に、意識を集中していた額の部分で『ブチッ』っという糸の切れるような大きな音が響きました。 同時に頭の中に『第三の眼が開いた』という考えが浮かびました。 

 ここからの思考は、自分の考えではありますが自分でコントロールできるようなものではなく、一切の迷いを含まず、自らも従わなければならないものです。 啓示を受けるという感覚が適当かも知れません。 

 続いて、『この目で、何かを見なければならない』と思いました。 思ったときには、僕は目を閉じ額に開いた第三の眼(物理的には開いていない)に意識を集中していました。 

 そして見えた光景は『絶対的な無』でした。 

 無い物が見えるというのもおかしな話ですが、見えたのは物質だけではなく、空間や時間、存在するものが依存するあらゆるものの無い、絶対的な無でした。 その絶対的な無の中に柱のようなものが立っていて、その天辺の平らで丸い平面に僕が立っていました。 その平面はとても狭く不安定で、その平面から一歩でも出れば、僕という存在は無に帰してしまうことが分かりました。 

 猛烈な恐怖が僕を襲いました。存在の根源を揺るがす恐怖です。 死の恐怖であれば、あの世であったり、輪廻を仮定することによって逃げることも可能だったかも知れませんが、存在が無くなり、絶対的な無に帰すことには、絶対という前提があるだけに逃げ場はありません。 『この恐怖を解決しなければ、僕は発狂してしまう』という想いが浮かび、その事実ばかりが明らかでした。 

 しばらくすると、恐怖に引き裂かれそうな僕の思考に一つのアイデアが生まれました。 

『恐怖を感じているのは僕が存在している証であり、僕が無に帰してしまえば恐怖する主体である僕は存在しないのだから、恐怖すらも存在しない。つまり、絶対的な無に帰す恐怖は、あらゆる状況に於いて存在しない』というものでした。 そのアイデアが浮かんだ後、僕の心に恐怖は存在していませんでした。 

 恐怖が無くなった後、続いて『無がそれなら、有とは何か?』という考えが浮かび、僕は再び第三の眼に意識を集中しました。 続いて見えたのは、先ほど僕が立っていた円が無数に存在し、それらが線で結ばれている光景でした。 一つの円は個という概念であり、線は隣り合うもの同士を繋ぐことによって、全体を繋ぎ合わせていました。円はそれぞれが存在することのエネルギーを持ち、それぞれがお互いにエネルギーを伝え合うことができ、全体として一つであることが分かりました。 たとえ、一つの円が失われてもエネルギーは全体に吸収され、個は消滅しても存在することは失われず、不意に次の個として現れることもあることが分かりました。 

 その後、僕は小学生の時に経験したのと同じくエネルギーに包まれ、エネルギーは存在しているということであるとが分かりました。 そこに時間の観念は存在せず、ただあるという状態だけが存在していました。その状態は、存在するという快楽であり、確証であり、私でした。 意識的な知的作業を超越してしまっている故に、名付けることができず。『それ』としか呼びようもありません。 自我や思考は無くなってはいませんでしたが、『私』の表面に現れたさざ波のようなものに過ぎませんでした。 二度目の体験の後、『僕はやっと夢から目覚めた』と感じました。 

 その体験のあとも、実生活では取り立てて変化はありませんでした。 ただ、内面的には無に対する恐怖、死に対する恐怖が、和らいだか無くなったと思います。 あと、無を受け入れることにより、存在は初めて無によって肯定される。 その肯定をふまえれば、『神とは、いま在るということのすべてである』という実感を持つようにもなりました。 

 見詰める者と、見詰められる物。存在と、無。 いま振り返れば、二つの体験は共に相対関係を超越することによってもたらされたと思います。つまり、原則として相反する二つのものを、その矛盾を超えて一つにすることによって、絶対的な存在に繋がることができたのだと思います。

 これらが僕に起こった体験です。できるだけ正確に、そして詳細に書いたつもりですが、書き漏らしていることも沢山あると思います。ただ、この体験自体は僕にとっては最高に素晴らしく、重要なものですが、この体験の解説を読んだ人に同じ影響がある訳ではありません。本来なら書く必要もなかったことなのかも知れませんが、原因になっている体験を伝えないまま、結果にあたる考えを書くのは不親切で不公平かと思います。それだけの想いで書いた文章ですので、ここまで読んでくださった方も、「まあそんなものかな」ぐらいの緩い感じで理解していただければ有難いです。 

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