時間は存在しない

精神世界

 時間は存在しないというタイトルを付けています。ここで否定しているのは、通常僕たちが認識している長さを伴った時間のことです。

 当然ですが、僕もまた時間の流れに従って暮らしています。「早く時間が経って仕事が終わらないかな〜」とか、「そんな時間の掛かる複雑なことは、ATMでやらずに窓口行けよ」みたいな感じです。ですから、これからの話は、非常に限定された状況と視点からのお話になります。

 では、それはどういう状況と視点であるのかというと、『悟り』が起こっている状況、つまり真理から、『時間』を見る視点になります。つまり、真理と時間はどう関わるのかということです。最初に結論を言っておくと、時間は存在します。時間なしで存在でるものは何者もないし、時間と存在は同意語であると考えています。つまり、時間を生み出しているのは、存在するということなのです。

 ただし、その時間が長さを持ち過去から未来へ流れていると感じているのは錯覚だろうと思っています。ここから、その事実に関する解説を行なっていきたいと思います。

悟りとは何か

 時間を説明する上で、僕は『悟りを得ている状況での時間』と、条件を限定しています。それでは、その限定条件である『悟り』とは何であるかということを伝えておかなければなりません。ただ、そのことについては『悟りとは何か?』という記事の中で既に語っています。もちろん簡単に語り得るものでもないので、悟りに関してはこれからもどんどん記事にしていこうと思いますが、今のところはそちらの方を参照して下さい。この記事の中では、『悟りとは何か?』に書いた内容を簡単に振り返ります。

 上記の記事では、悟りをユング心理学の説から説明しました。ユング心理学では、悟りとは、自我セルフ軸が崩れ、自我がセルフ(自己)の中に落ち込み一体になった状態であると仮定していました。この考えはおそらく東洋思想の影響を受け、不二一元論や、仏教における唯識派の思想に基づいたものだと思われます。唯識派は認識というものに注目し、この世のすべては認識に過ぎないとし、認識する主体と認識される客体を定義します。つまり、認識する主体と認識される客体は、二元的な相対関係を持ちお互いが反発し合い別々のものになります。そして、その反発しあう力が何らかの影響によってなくなり、主体と客体が一体になった時が悟りを得るということなのです。

 これはユング心理学の説明と同じだとみなしてもらっても良いのではないかと思います。ユング心理学では、反発し合う力としての自我セルフ軸が崩れ、主体である自我が、客体であるセルフ(自己)に落ち込み一体になることを悟りであるとしていました。つまり、悟りとは、二元的分離のない状態で、認識主体である自分が、認識客体である自分を認識している状態なのです。僕はこの状態を、何にも映さず自分で自分の顔を見るような状態あると喩えました。

時間の流れは幻である

 僕たちは、過去、現在、未来が存在し、過去から未来に向かって時間が進んでいくように感じています。それでは、それらは実際に存在しているのでしょうか。つまり、現在であった時間は過去になり、今は別のどこかに存在しているのでしょうか。それとも消失してしまったのでしょうか。

 どうして、僕たちは時間を流れとみなしているのでしょうか。それは僕たちが観察主体としての一面からしか時間を認識していないからです。観察主体は、観察結果として時間を認識していきます。あくまでも観察主体としての認識に過ぎず、僕たちの認識している時間はある意味主体性が作り上げた認識という幻に過ぎないのです。ただそれは、真理という視点からではありません。客体と主体は、二元性の中で、バラバラに分裂したままです。

 『悟りとは何か?』という記事で、悟りとは自我セルフ軸が崩れ、自我がセルフ(自己)に落ち込み一体になった状態であると書きました。それは、主体と客体が相反するという反発力を失い、一体に溶け合った状態であるとも言い換えることができます。ここまで主体からの認識としての時間の流れにだけ説明をしてきました。それでは主体と客体の溶け合った状態、つまり真理としての悟りの状態から説明するなら、時間はどう表されるのかを考えていきます。

 主体が溶け合うのは、客体としての自己です。自己以外は認識というスクリーンに映し出された幻であり、自己だけが客体としての事実です。主体と客体は、共に同じ『私』なのです。そして、認識というスクリーンを介さない直接的な経験があります。そこに観察結果としての時間の流れは存在せず、存在しているという状態しかありません。そこには、過去から未来へという流れもなければ、長すらありません。ただ、存在する状態があるだけです。つまり、時間とは、ただ存在するということです。 

 そして、そうでなくては永遠に届かないのです。

永遠の時間とは

 流れがなくて、時間は永遠たりえるのでしょうか。おそらく多くの人は、永遠を、無限に続く時間の流れと理解しています。そして、その永遠に続く時間の中に常在する何者かに寄り添うことで、僕たちは自己の永遠性を担保しようとしているのだと思います。具体的には、宗教を通して、神に自身の存在の根拠を委ねることで、その不確実さから逃れようとしているのだと思います。

 ただ、以前の『死ぬのが怖い人達へ』という記事でも書きましたが、その永遠は科学によって否定されようとしています。そして、ここらその記事の最後に『後は、あなたが、あなた自身で解決してください』と書いたことへの僕からの解答になります。ただ、この説明は話を聞いて理解したところで大して意味はなく、自分で気付く必要があります。ですから、参考程度にしていただければ有り難いです。

 間違いがあれば指摘してほしいのですが、現在の科学では宇宙は無から生じ、いずれ収縮して無に帰すか、無限に膨張を続け薄まるかと言われていると思います。膨張を続けるにしても、片方の端は無なのですから永遠ではなく有限です。同じような宇宙が無数にあるとも言われますが、それらの宇宙は無によって隔絶されているため関連性がなく、やはり宇宙は一つであり、その宇宙は有限です。

 宇宙が有限であれば、空間も時間も有限です。いつか終わりがやってきます。つまり、空間や時間に縛られる神ですらが、有限ということになります。ただ、だからこそ時間の流れが幻である必要があるとも言えます。永遠は時間の流れとしては存在しないからです。だからこそ、観察する主体が作り出した幻としての永遠を抜け出し、本当の永遠に到達する必要があると思うのです。

今あるということは失われるのか

 いま存在しているという状態ほど、儚いものはないように思えるかも知れません。それは一瞬先にも、失われているように思えるからです。ただ、その状態は本当に失われているのでしょうか。

 その状態が失われることはありません。それがあたかも失われたように見えているのは、僕たちが認識の主体として時間を観察しているからです。あの時の今が失われていないとするのなら、あの時の今は何処に行ってしまったのでしょうか。あの時の今は、今もあの時に在ります。僕たちという認識主体が移動して、あの時に戻れないだけなのです。

 何一つ、失われてしまったものはありません。あなたが失ってしまったと思っている大切なあの時は、今もあの時のまま、あの時に在り続けているのです。

永遠の今

 それでは、その『今』は僕たちが考えているような時間の流れにおける、一つの断片としての今と考え続けていて良いものなのでしょうか。過去や未来に無数に散らばっているように見える今は、本当は一つの今なのではないでしょうか。

 もう一度、過去から未来へ向かう時間の流れを想像してみましょう。

 おそらく多くの方が、この図のように時間の流れをイメージしていると思います。そして、これもまた時間を理解する上での便宜上のイメージであり事実ではないことを覚えておいて下さい。

 それでは悟りの状態における時間は、どのようなイメージで表されるでしょうか。悟りは、主体と客体が反発力を失い溶け合った状態であると言いました。そして、溶け合うのは主体と客体に代表されるだけで、相対関係にある二元性であれば良いとも伝えてあります。それでは、上の図に相対的二元性は存在しているでしょうか。その通りです。過去と未来です。それは始まりと終わりと言い換えることもできます。

 それではその混ざり合うことのない、始まりと終わりが溶け合い一つになったと仮定して、上の図はどうなるでしょうか。お手元に紐などがあれば、両端に始まりと終わりを決めて一度試してみて下さい。おそらく下の図を思い付いたはずです。

 勘の良い方なら気付くと思うのですが、これは、自ら尾を食べ成長するウロボロスの蛇です。悟りとは、何にも映さず自分で自分の顔を見るようなものと言いましたが、ここでも自らの中に出来事は限定されています。矛盾は超越されています。そして、ウロボロスの蛇は永遠の象徴でもあります。

 時間の輪には、始まりも終わりもありません。つまり過去も未来もありません。そして、時間の経過に起因する原因と結果もありません。例え一定方向に回転していたとしても、輪の上のある特定の地点は、別の特定の地点の前であると同時に後ろでもあります。過去は同時に未来でもあるのです。そこでは過去や未来といった非可逆的な方向性すら意味を持たないのです。つまり、今はただそこに在るだけです。

 そして、円には新しい中心ができます。それまでの二元的対立関係、つまり始まりと終わりを繋ぐ線上ではない場所にできています。別に科学的な説明をするつもりもないので直感的に理解してもらいたいのですが、円の中心は円全体を象徴しています。あらゆる今を象徴し、一点を成しているのが中心の今です。つまり、過去や未来という無数の今が散らばっているのではなく、唯一の『今』に、過去や現在、そして未来、あらゆる今が内在されているのだろうと思います。その今は唯一永遠の今なのです。始まりも、終わりもなく、時間の長さすらもない、ただ永遠の在るという状態です。そして、それを神と言い換えることはおそらく許されるのだろうと思います。

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