価値の構造と愚か者について

こころ

以前相談に乗った友達(美人)の、その後の話です。

その後の彼女

このブログでも、『それでも、苦しみに出会ったら』という記事で取り上げさせて頂いた話です。相談の内容は、彼女自身の健康に関することで、命に関わるような病気ではないが、完治するようなものでなく、ある程度は必ず日常生活に支障を及ぼすことがあるとのことでした。当時は発症して直ぐで、何とかその病気を受け入れようと葛藤している最中でした。

そこで僕がしたアドバイスは、『いまの自分より下を見ろ』というものでした。この世の中には、自分よりも苦しい経験をしている人は必ずいます。それは他人じゃなくても構いません。自分の人生の中でも、今よりも苦しい時期はあったはずです。その時と比較すれば、少しはマシだと思えるはずです。

例えば、自分より不幸な人がいるとすれば、自分はその人よりは幸せである訳です。確かに、人の不幸を自分のために利用しているように感じられるかも知れませんが、比較するのは他人ではなく、過去の自分でも構いません。それが他人であったとしても自分の幸せを生み出してくれている訳ですから、その誰かの状況に対して、一定のリスペクトは払えるはずです。

つまり、不幸や幸せを絶対的な価値とするのではなく、相対的な価値とみなすのです。それによって、状況は流動的になります。不幸は幸せにも、幸せは不幸にもなり得るのです。もしかすると、気まぐれに都合良く価値の判断基準を切り替えていると感じられるかも知れませんが、もちろんそうではありません。

絶対的な価値から相対的な価値へ、価値判断の基準自体を移行しようとしているのです。そして、実のところ絶対的な価値などはこの世の中には存在せず、相対的な価値が比較し合いながら、全体としてバランスを取っているだけなのです。つまり、相対的関係が生み出す価値だけが存在しているのです。その本来的な価値の構造に気付いたというだけのことです。

その後の僕

彼女が言うには、病気の症状にも慣れてきた。そして、症状が出ていないときは、症状が出ていないことに対して、とても幸せな気分になれると言います。それは、健康だったときなら気に留めることもなかったはずの当たり前の一日です。辛い日が存在することによって、在り来たりな一日が幸せを噛み締める一日に変化している訳です。それは、相対関係のもたらす比較対象の結果です。それこそ、僕の望むところなのです。

そして、どうしても辛いときは、僕のことを思い起こすとも言っていました。

僕のことを思い起こす? うん?

『えっ、待って待って。そんなつもりじゃ……。確かに、君のことを思い遣ってアドバイスしたけど、あくまでも友達としてできることをしただけだし。僕も気持ちに整理を付けないといけないし。でもまあ美人だし……』と、あたふたしてしまう訳です。

しかしまあ、彼女は言葉を続けます。「かつみさん(僕)はあたしよりずっと辛い思いをしているんだから、あたしなんかまだ幸せな方だって思える。自分より下を見るって言うと悪いんだけど、かつみさんが下にいてくれることで、それよりもあたしはまだマシだ、幸せなんだって実感できる」

確かに、僕は彼女を励ます意味で、自分が交通事故の後遺症に苦しんだ過去があることを話したことを思い出します。

『僕のことを思い起こすって、そういうご利用目的ですか……』

彼女は僕のアドバイスを理解し、相対的価値の構造を理解することによって、苦しみを幸せに変える方法を手に入れました。僕はその為に、アドバイスをしたのです。彼女の言葉は、僕にとっての望むところ。つまり、たぶん、絶対に本望なのであります。やれやれ。

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