無は存在するのかという疑問に対しては、明確に答えることができます。無は存在しません。何故なら、それが無の前提だからです。それなのに、なぜ無という概念が存在しなければならないのかを、今回は時間に関してお話ししたいと思います。
無と時間
無がなければ、何も始まらないのです。それは、神話の始まりに無がなければならないのと一緒です。ローラシア型神話において、時間を含めた森羅万象が、無から展開していきます。ちなみにローラシア型神話は後期の神話で、初期の神話にはゴンドワナ型神話があります。ローラシア型神話の特徴には、世界の成り立ちを説く創世神話が含まれることがあります。解釈は幾つもあるのでしょうが、それらの創世神話における始まりの前は無です。
無から始まり、過去から未来へ向かう時間の流れが、認識する者によって一定でないことも事実です。例えば、西洋的、現代的、そして科学的ともいえる、過去から未来への一方向に進む直線的時間の概念があります。これは、僕たち現代人が慣れ親しんでいる考え方で、僕たちはこの時間の概念に支配されて生きています。ただ、時間の流れも所詮は主観的認識であり、個人の感覚において絶対だとも言い切れません。
もう一つの時間
他にも、円環的時間という時間概念があります。これは東洋的、ないしは農業的時間概念です。例えば、春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がきて、再び春が始まるサークルのサイクルです。時間は円環を一周して、再び元の場所に戻ってくるように感じられます。違う何処かからやってきて、見知らぬ何処かへ過ぎ去っていく直線的移動ではありません。僕たちはその円環に留まり、どこか遠くに連れ去られることはないように思えます。それは、永遠に、寄り添うように生きる生き方と言えるのかも知れません。
しかしながら、円環的な時間も完全な円環ではありません。時間は円を描きながら、それでも過去から未来への直線的時間を進んでいくのです。螺旋階段を昇っていくイメージですね。それでは、この円環的時間を発展させ、永遠のイメージを導くことは可能しょうか。可能であるとするなら、螺旋ではなく、円を完全閉じて円環を作ることです。始まりと終わりを繋ぎ合わせることができれば、それは可能になるのです。自らの尾を食べて成長を続けるウロボロスの蛇のイメージしていただけると分かりやすいかと思います。ウロボロスの蛇は永遠の象徴であり、時間の認識主体である私は何処へも行くことはなく、その円環に留まります。僕たちは、永遠の只中で生きることができるのです。
時間は、過去と未来という相対的存在です。過去という『始まり』と未来という『終わり』が繋ぎ合わされたとき、そこに相対関係は消滅します。代わりに現れるのが、『中心』です。中心は円環を象徴する存在です。一点でありながら、象徴として全体を表現します。中心を持たない円環は存在しませんし、円環を持たない中心も存在しません。それらは、同じことの表現の違いです。それではこの中心とは何なのかという疑問に、それは『悟りの状態』であるとも答えられます。「えっ?いきなり理屈が飛躍した!」と思われる方も居るかと思います。僕から言わせて頂けることがあるとすれば、「まあ良いじゃないですか」ということです。
永遠の時間
しかしながら、さすがに不親切かと思うので、直感以外の理由を弁明として書いておきます。円環を完成させる為に必要なものに、始まりと終わりという対立するものの結合があります。それは相対関係の消滅とも言えます。僕はこれまでも、悟りは対立する二つのものが一つになること、一つになるというのは本来は対立する関係が、それぞれをそれぞれが補い合う対の関係になるということです。それは相対関係から相乗関係への超越的変化です。ここでもそれは起こっています。もちろん、始まりと終わりです。この正反対の性質を持つものが結合したとき、時間の円環は完成し中心は現れるのです。
※
僕たち現代に生きる者は直線的時間の中を生きています。そして永遠を夢見るのです。その夢を現実にする為には、始まりと終わりが必要なのです。直線の始まりと終わりを結合させることができれば、直線は円環に変化することができるからです。
そして、始まりと終わりが存在する為に必要なものは一つだけです。それが『無』なのです。無がなければ、始まりと終わりは存在しません。例え、始まりと終わりの存在しない時間を時間と呼ぶのだとしても、そこには永遠は存在しません。時間の牢獄がどこまでも続くだけです。無が存在し、始まりと終わりが存在するからこそ、そこに永遠は現れるのです。

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