推し活にハマる人々

こころ

推し活という言葉を聞いたことのある人は多いのではないでしょうか。AIに調べてもらうと、『推し活(おしかつ)とは、アイドル、俳優、アニメキャラクター、スポーツ選手など、自分が「推している(応援している)」存在を様々な形で支援し、日常生活に取り入れる活動のことです。ライブやイベントに参加するほか、グッズの購入やSNSでの発信、聖地巡礼など、活動内容は人それぞれで多岐にわたります』とのことです。

推し活は恋愛ではないのか?

では、具体的にどのような活動をすると推し活と呼ばれるのか。先ず思い浮かぶのは、アイドルに関する推し活です。AKB48みたいなものですね。それまではCDを買ったり、コンサートに行ったりすることだったファン活動が、沢山のCDを買うことでグループ内での『推し』の地位を上げたりします。

ただ、このような推し活を見て、僕はそれが疑似恋愛なのだろうと思っていました。単に憧れているだけではなく、現実の世界で会えて相手にも影響を与えることができることによって、より恋愛関係に錯覚し易く、その関係にのめり込み易くなるのではないのかと考えたのです。

そういう人が居るのも事実ではあります。そのような人々を推し活界隈では『リアコ』というのだそうです。リアコとは「リアルに恋してる」の略で、アイドルや俳優、アニメのキャラクターといった現実で恋愛関係になることが難しい存在に対し、結婚や交際を本気で望む恋愛感情を抱いている状態を指すネットスラングだそうです。

アイドルや俳優に、恋愛感情を持ち、結婚を望むのはまだ理解できます。万に一つ可能性はあるからです。しかし、アニメキャラクターってどういうことなのでしょうか? それは、ただの『』です。絵に描いた餅とも言いますように、どれだけ理想的な存在に見えても、それは食えるものではないのです。

それはさておき、推し活は疑似恋愛なのかということに話を戻しますが、推しに恋愛感情を持つ人がリアコなどと特別に扱われるように、それは一般的に疑似恋愛ではないのだと思われます。僕の友人に推し活にハマっている女性が居るのですが、彼女はテーマパークで踊る着ぐるみを推していました。推し活の話題はどんどん常人の理解を超えてくるのですが、着ぐるみって物じゃんと思うわけです。僕なんかは、着ぐるみの中のダンサーさんを推しているのかと想像するのですが、どうやら彼女は外側の皮の部分を推しているのです。もう一度言いますが、それは『物』です。

推し活は本能的衝動なのか?

さすがに物に対して恋愛感情を持つことはないでしょうから、彼女にとって推し活は疑似恋愛ではないのです。彼女は、韓国アイドルを推し活している時期もありましたが、その時も推しに対する恋愛感情はなかったと言います。それでは何のために、膨大な時間とお金を推し活に使っているのかがまったく理解できなくなるのです。もしかすれば、彼らにとって誰を推すかというのは、それほど重要なことではないのかも知れません。誰かということよりも、『推す』という行為自体が重要なのではないのでしょうか。

つまり、推し活をする人々の心理には、『推したい』という本能的衝動のようなものが存在しているのではないかと思うのです。どういうことなのか、狩猟とギャンブルの関係を例に、もう少し説明します。

狩猟は大変な労働です。狩りに出ても必ず獲物が獲れるとは限りません。何日間も何も獲れないこともあっただろうと思いますし、とても危険な行為でもあります。動物を狩るにしても、自然は過酷ですし、凶暴な動物や、毒を持った生き物もいるかも知れません。魚を撮るにしても同じです。それらは苦しみと生命の危機に満ち、出来れば避けて通りたい、やりたくないことのはずです。

しかし、それはやらなければならないことでもあります。苦しくともやらなければ、家族全員が飢えて死んでしまうのです。そのような悲劇を避けるために、人間は狩りを楽しみに変える方法を手に入れました。要は、苦しみに耐え、獲物を獲得できた時に、達成感や満足感という快楽を得れるように脳が進化したのです。その快楽が欲しくて、人間は狩りに行くようになるのです。

しかし、現代において、人は狩りをしなくなりました。ただ、人を狩りに向かわせていた脳の機能は、狩りをしなくなってもなくなることはありません。何万年も掛けて培われた能力が、そう簡単になくなることはないのです。脳は引き続き人を狩りの刺激と快楽を味合わせようとしますが、人が行くのは単調な会社で、狩りに行くことはありません。今度は狩りに行かないことが、ストレスを生むことになるのです。

そして、人間は狩りに行かなくとも、狩りに行ったのと同じ満足感を得れる方法を開発しました。それが、ギャンブルなのです。パチンコを思い浮かべてください。当たりのこないパチンコ台を打ち続け、やっと当たりが来た時に人間は快楽を感じ、その快楽が欲しくて再びパチンコ屋に行くのです。それは狩りと同じ構造で、狩りの代用品であるようにも思えます。

ギャンブルが、狩りの代用品であるのなら、推し活も何か本能的な衝動の代用品なのではないのかと思うのです。だから、大した理由もなくターゲットになる対象を見つけると、せっせと推し活に励むのでではないかと思ったのです。そして、推し活は誰かを応援する行為です。それは利他的行動であり、利己的な観点からは苦しみを伴います。しかし、人類としては他者を援助する行為はコミュニティーを守るために必ず必要になります。嫌々では恒久的にコミュニティーを維持することはできません。

狩りがそうであるように、誰かを援助するときに快楽を得れるように、脳が進化したのではないかと僕は思ったのです。そして、狩りをする必要がなくなっても、脳が狩りの快楽をもとめ、ギャンブルという代替えの手段を生み出したように、他者を私ごととしてまで援助する必要がなくなった現代において、欠落した空虚を埋めるために『推し活』という代用品を生み出したのではないかと推測したのです。

そうでないなら、何なのか?

その推測を確かめるために、再び推し活をしている友達に「推し活をしている原動力はなんですか?」と問い合わせてみました。返ってきた答えは、「ただ、その推しが好きだから」ってことでした。「えっ?」ってなって、脳みそがフリーズしてしまいました。いろいろ考えた結果が「ただ好きだから」で締め括られてしまったのです。自分の推測を否定されて、「やれやれ」といった感想しかありません。

しかしです、エベレストに登山しよとしていた登山家が「なぜあなたはエベレストに登りたいのですか?」という質問に、「そこにそれがあるから」という答えを返したのと同じなんじゃないかとも思うのです。「ただ、推しが好きだから」という言葉は、もはや名言なのです。それは、説明も寄せ付けないほど、純粋で根元的、つまり崇高な願望なんだなって自分を納得させるに至ったのであります。

やれやれ。

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