哲学的ゾンビ と クオリア

こころ

哲学的ゾンビという思考実験を、あなたは知っているでしょうか。

哲学的ゾンビ

ネットで調べると、哲学的ゾンビとは、外見や行動は普通の人間とまったく同じだが意識にのぼってくる感覚、意識やそれにともなう経験(クオリア)を全く持っていない存在を指す思考実験上の概念であると説明されています。この概念は意識や心の哲学における問題を探求するために、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提唱されたそうです。

外見や行動が普通の人間とまったく同じであるなら、それが人間か哲学的ゾンビなのかを他者からは見抜けないでしょ?という提案です。つまり、第三者が観測可能な客観的視点、物質主義な観点から、本質は見抜けないということです。この考えは、これから訪れる近未来の社会にとって、とても重要な指針を与えてくれると思います。

SF作品などでは、しばしば人間とそっくりな姿をしたアンドロイドが登場します。困ったことに、彼らは発達したAIにより人間と同じように思考し会話することさえできるのです。違いといえば吐き出す血液が白かったり、型番が刻まれていたり、充電用のケーブルが付いていたりするだけです。おそらくそのような世界が、あと100年も経たずに訪れることだろうと思います。もちろん、白い血液などは映画の演出上の話なので、現実の世界で見分ける術はありません。

ちなみに、アンドロイドは人間そっくりのロボットを指す言葉として、そのようなロボットの総称として使われますが、厳密に言えば男性型のロボットのことを指します。それが女性型になると、ガイノイドと呼ばれます。

外見(哲学的ゾンビの場合は分子レベルまで同じ)や会話から判断できないのなら、そこに違いはあるのでしょうか。分子レベルで同じであれば、物資主義的観点からなら同じであると言わざるを得ません。しかし、違いはあると言うのです。その違いがクオリアを持つかどうかということになります。

クオリア

それではそのクオリアとは、一体何なのでしょうか。Wikipediaさんによれば、感覚的な意識や経験のこと、意識的・主観的に感じたり経験したりする質のことだそうです。何だと?って感じで、まるでピンと来ません。客観的には観察できない意識の主観的な性質のこととも書かれています。どうやら主観的と言うところがミソのようです。そして、このクオリアという概念は明確には定義されておらず、使う人によって若干の違いがあるそうです。

哲学的ゾンビを考えるにおいては、夕陽を見て、赤いと思った時に、心に映ったその赤さということになるでしょう。心に映った赤さは、ある意味、外部の夕陽とも一線を画した『主観的、内的経験』です。そして、それの有る無しが、人間と哲学的ゾンビを分けるのです。

とは言え、『心に映った赤さ』と言われても、やはりピンと来ず、「えっ? どういうことよ?」と思われる方も多いと思います。それなら、クオリアは、写真のフィルムであると言い換えてみればどうでしょうか。

つまり、カメラのレンズを通った光は、フィルムに画像を刻みます。そのフィルムに刻まれた画像がクオリアを象徴します。フィルムの例えを哲学的ゾンビに当て嵌めると、哲学的ゾンビはフィルムの入っていないカメラということになります。フィルムの入ってないカメラのレンズから入った光は、何者にも受け止められることなくただただ闇へと消えていくのです。そこに撮影体験はありません。夕陽の赤さは消えていき、存在することはないのです。外観や構造はまったく同じだとしても、内部にフィルムがないだけで、それは高額な鈍器程度の役にしか立たないのです。

認識主体としての『私』

それでは人間の場合、フィルムは何に当たるのでしょうか。いやいや、だからフィルムがクオリアの例えなんだから、クオリアだろうと思われると思います。例え話が一周回ってしまっているのですが、フィルムの例え話から振り返り、もう少しクオリアを考えていきたいと思います。

人間において夕焼けの赤さを受け止めているのは『認識する私』です。それはとても主観的経験です。仏教の唯識論を例に挙げるまでもなく、外的刺激に影響を受けて表れた、純粋に内的な経験です。外的な刺激すら、もはや無関係であると言えるかも知れません。認識するという行為、その行為を発生させる主体としての『私』があるからこそ、あなたが哲学的ゾンビではないと言える根拠になるのです。

そしてこの『私』こそ、掛け替えのないあなたです。無に帰すことをおそれ、永遠を夢見るあの私です。

哲学的ゾンビの思考実験により、チャーマーズの理論は『構成不変の法則』と言う考えにたどり着きます。つまり、意識は物資に依存するのではなく、その機能構成(情報処理の構造)が同じであれば同じ意識体験が生じるという考え方です。となると、まったく違う存在、石や、草、機械に至るまで同じ機能構成を持つのなら、同じ意識体験を持つことになるのです。僕は、クオリアを認識する私、主体としての私と提起しました。もしそうであるなら、『私』はあらゆるものの中に宿ることになるのです。

ええ? それじゃ『私』という概念の前提となる『個』という定義すら揺らいじゃわない?ということになります。前提が喪失し、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうですが、次の記事では、当たり前過ぎてあまりフォーカスを当てられることのない、『私とは何か?』ということについて、あらためて考えていきたいと思います。

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