一瞬で幸せになる方法

精神世界

天秤の揺らぎ

 その幸せはあなたの期待するものとは違うかも知れないけれど、一瞬で、今すぐ幸せになることは可能です。この世の中のすべてのものは、相反する二つのものによって成り立っていることを知るだけで良いんです。例えば男と女、豊かさと貧しさ、始まりと終わり。それらは単独で存在することはありません。相反する存在と一対になって存在しています。

 そんなことはない。例えば『あ』という固有名詞が存在したとすれば、それは固有名詞なのだから相反するものは存在しないと思われるかも知れません。ただ、固有名詞としての『あ』が存在した瞬間、『あ』以外のものが存在しています。

 つまり、幸せが存在した瞬間に、避けようもなく不幸せが存在してしまうのです。言い換えるなら、それのみによって成り立つ絶対的な幸せは、存在しないということになります。絶対的な幸せが存在しないなら、幸せと感じる基準は何なのだろうって疑問が浮かぶと思います。この世界が相反する二つのものによって成り立っているということを知った瞬間、幸せは絶対的なものから、相対的なものになるわけです。

 例えば、高級料理ばかり食べている人のステーキと、飢餓で食べる物もない人の食べるおにぎりの、どちらが美味しく感じられるかということです。例えば、大富豪の持つ一万円と、貧しい人が持つ一万円では、同じ一万円でも与えられる豊かさは変わってくるということです。そして、当然貧しい人が持つ一万円の方が、より豊かさを感じられるはずです。

 幸せも同じです。幸せばかりの人生の人より、幸せでなかった人生を歩んできた人の方が、同じ出来事が起こったとしてもより幸せを感じやすいはずです。ここで気付いてもらいたいことは、幸せをもたらしているのは、『幸せな出来事』ではなく、不幸せの方であるということです。相対的な二元の世界では、相反する存在がもう一方の相反する存在を成り立たせているということです。残念ながら例外はありません。つまり、不幸せが存在しなければ幸せは存在しないし、幸せであろうとすればするほど不幸せが現れてくる訳です。

 天秤をイメージしてください。片方の皿に錘を乗せれば、もう片方の皿が上に上がります。これを幸せと不幸せに当てはめるなら、幸せを望めば自ずと不幸せが現れてくる訳です。もう少し具体的に話すと、幸せになりたいと願って具体的な幸せの条件をイメージしている人は、そうでない現実が現れます。そして、その現実は相対関係によって不幸せな状態と認識されます。そうなると本末転倒だけの話ではなく、幸せではない現実を受け入れられず、幸せな未来という空想の中で暮らすことになりかねません。

 もし、今すぐ一瞬で幸せになりたいのであれば、すべてのものが二元的相対関係にあり、片方だけでは成り立たない、片方を成り立たせているのは相反するもう片方であるということを理解するべきです。幸せになることを捨て、不幸せであることを受け入れるべきです。もしそれが出来るなら、もう不幸せになることもありません。なぜなら不幸せは、二元的相対関係において、幸せを与えてくれる唯一の存在だといえるからです。

不幸は幸せの積立預金

 もし、すべてのものが二元的相対関係にあり、片方を成り立たせているのは相反するもう片方であるということを理解できても、それが実生活に落とし込まれるには時間が必要かも知れません。その事実に気付いた時点で問題は解決しているのですが、社会は引き続きお決まりの価値観を押し付けてくるでしょう。

 最終的には、相対的な価値観に縛られなくなります。幸せでも不幸せでも、どちらでも構わないという心境です。もう一度天秤に例えるなら、天秤の軸の部分に立ち、左右の皿の動きを眺めているような心境です。左右の皿が上下しても、自分はその動きに巻き込まれず達観できている状況です。それは、幸せになることを手放した状態でもあります。ダイレクトに社会と関わる人生においては、ほんの少し詰まらない状況かも知れません。

 社会は引き続き要求し、あなたも幸せになりたいと引き続き思っている中、幸せにならなくても良いとはなかなか思えるものでもありません。それならば、幸せになりたいと思い続けていても良いから、ほんの少しだけ考え方を変えて下さい。

 この二元的相対関係において、片方の価値はもう片方の価値を成り立たせてくれています。つまり、幸せになりたいという想いは、不幸せであるという想いを必然的に生み出してしまう訳です。それなら、その構造を逆手にとってしまえば良い訳です。不幸せであって構わない。なぜなら、いずれ不幸が幸せを生み出してくれるからです。そして、二元的相対関係においては、不幸が大きければ大きいほどもたらされるであろう幸せも大きくなります。

 目的を持っても構いません。幸せを夢見ても構いません。そして、結果的に不幸せを感じることは避けられません。ただ、不幸を感じたときはこう考えてみて欲しいのです。

不幸は、幸せの積立預金

 不幸を感じれば感じる程、いずれもたらされであろう幸せは大きく積み上がっているからです。そう考えれば、少なくとも、不幸である現状を好意的に受け入れることはできるようになりますから。

絶望の落下点を持つ

 不幸は幸せの積立預金と考えるようにして下さいと伝えしました。不幸こそが、幸せをもたらせてくれる唯一のものだからです。

 その考えを腑に落としていくと、幸せであることも、不幸であることも、それほど重要な意味を持たなくなるはずです。幸せはいつか訪れる不幸の原因だし、不幸はいつか訪れるであろう幸せの原因だからです。結局のところ、幸せであるとか不幸であるとかは、大した問題ではないと思えるようになるでしょう。幸せになったところで、それが原因で不幸にはなるし、不幸になったところで、それが原因で幸福になるからです。所詮はプラス・マイナス0の世界に生きていることを知るからです。

 ただ一つだけ、常に幸せで居続けられる考え方があります。あらゆることに絶望し、その絶望を受け入れることです。つまり、幸せになることを諦め、不幸であること人生として受け入れてしまうことです。お釈迦様は『人生は苦なり』と言いました。おそらくお釈迦様なりの思うところがあっての言葉で、僕の伝えたいことと同じではないでしょうが、もし、自分の人生はすべて苦しみであると完全に納得できれば、人生のすべてを幸せに変えることができます。

 この世界は、相対的なものであるともお伝えしましった。もし、その相対関係の基準を苦という絶望絶望に置き換えれば、それ以降起こってくる出来事はすべてが幸福になります。苦が起こってもそれは当たり前であり、苦以外のことが起これば、それらはすべてが幸福と感じられることでしょう。

 僕は、自分の人生に対して絶望したことがあります。その時、街路樹を眺め「自分は成功や目的を持つ人間でなくて良い。ただ生えているだけの木で良い」と感じました。しかし、その考えすら直ぐに自分自身の心によって否定されます。「木は成長しなければならない。成長に価値を見出さなければならない。僕は道端に転がる石で良い。石なら成長する必要もなく、無価値なまま転がっていれば良い」という結論に思い至りました。まあ、それが僕にとっての絶望の落下点というようなものです。

 それ以降、僕はより楽に生きれるようになりました。なにしろ僕は道端に転がる石ころであれば良いのですから、『仕事をしていられる』『ご飯を食べれる。ましてや美味しいご飯を食べれてる』『生きている』

 もしかしたら、それらは一般的には取るに足らない当たり前のことなのかも知れません。しかし、僕にとってはとても特別で素晴らしい経験です。なにしろ、僕は石ころで良いのですから。悪ガキに石蹴りされたとしても、石ころにとっては、おそらく掛け替えのない、素晴らしい経験なのです。

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