悟りとは何か?

精神世界

 僕達の住む日本では、『悟り』は比較的いろんな場面で使われる言葉だと思います。何だか世の中を達観したり、強い確信に基づいて生きている人には、「あいつちょっと悟ったとこあるし」とか、直感的な確信を得たときには、「オレ、何だか最近悟ったことあってさ」などということもあります。メディアなどでも『さとり世代』などと世代区分としての名称にまで使われたりもしています。わりと気軽に使われる『悟り』という言葉ですが、当然、宗教用語で、そして意外にも本来の意味からそれほどズレずに使われているところが、日本人は大したものだなって思います。

 ちなみに、『縁がある、ない』いうときの『縁』って言葉も仏教の『縁起』から来ています。『縁起』はお釈迦さまが悟りを開いたときに獲得したビジョンのことです。カフェでの女子会で、ネイルにマツエク、カラコンの女の子達が、「あたしもう別れるかも……」「そうか、ひろき君とは縁がなかったのよ」「縁もないのに、無理して頑張っても無理よね」とか会話しているあの縁は、お釈迦さまのビジョンから来ているのです。

 もしお釈迦さまが転生されて(お釈迦さまは転生しないということになってますけど)、その様子を見たらどう思うでしょうか。僕は、お釈迦さまが『あの時俺の観たビジョンがこんな遠い国の、こんな遠い未来にまで伝わって、こんな女の子達に普通に親しまれて使われている。なんて素晴らしい!』って嬉しく感じられるんじゃないかなって思います。あらためて「俺すごい。天上天下唯我独尊!」て、叫んでしまうかも知れません。

心の構造と悟り

 以前に、『私』と、非二元について思うこと 2という記事の中で自我セルフ軸が崩れ、セルフの中に自我が落ち込み、それらが一体になった状態が『悟り』であると書きました。これは、ユング心理学の中で唱えられている説です。ただ、ユング自体、東洋思想に影響を受けていた人物なので、そこからアイデアを得たのだと思います。ここにユング心理学における心の構造を簡単な図で示しておきたいと思います。

 このような図を見たことのある方もいらっしゃると思いますが、ユング心理学における心全体のイメージ図です。あくまでも、心の構造を理解するための表現に過ぎないので、その辺は上手く自分で咀嚼して理解して下さい。

 外側の大きな円の内側が心の全体を示し、上に開いた弓状の仕切りを境に、上が意識的な領域、下が無意識的な領域に分かれています。大きな円の中心に、私の中心であるセルフ(自己)が存在し、意識的な領域の中に自我が存在しています。そして、自我とセルフの間を、赤い線で示した自我セルフ軸が繋いでいます。今回は、この自我セルフ軸という概念を中心に、悟りとは何かを探っていきたいと思います。

それは何故二つに分かれたのか

 そもそも、自我セルフ軸が崩れ、セルフの中に自我が落ち込み、それらが一体になった状態が『悟り』であるのなら、何故、自我セルフ軸などというもの存在するのでしょうか。そんなものが無ければ、人は悟りを求めたする必要はなかったのかも知れません。一体になるまでもなく、自我とセルフは一体だからです。

 その疑問に対して、人間が答えを持ち得るのかという疑問も浮かんできます。なぜ、一つだった自我とセルフが二つに分かれ、再び一つに成らなければならいのかという疑問は、人間の分別として価値判断を超え、不可知なる神の意志という側面を持っているのではないかとさえ思えるからです。せいぜい、『一つになる為には、二つに分かれる必要があった』という程度の禅問答的表現に留めておくべきなのかも知れません。しかしながら、それで終わりというのも面白くないので、もう少し考察を続けたいと思います。

 うろ覚えの記憶で話を進めて申し訳ないのですが、存在するということは「認識されること」であるという思想があります。何者かから認識されることによって、認識された何者かは存在することができるという考え方です。

 これも出典を示せない曖昧な記憶ですが、前途したカール・グスタフ・ユングが誰も訪れたことのないであろう砂漠でキャンプをしたとき、夜空の下で今まで誰も見たことない景色を見て、『自分がこの世界を初めて認識した人間であり、自分が認識したことによって初めてこの世界は存在することができた』と感じたと記されていました。つまり、その景色が存在するためには、ユングの眼差しが必要だったのです。

 存在するために認識されることが必要であるなら、鍵の掛かった引き出しに入れられて忘れ去られた本は、存在していると言えるかという問いがあります。鍵の掛かった引き出しに入れられているということは誰からも認識されることもないし、忘れ去られているということは観念としてすら存在を認識されることはありません。しかしながら、その問いに対してある者は答えます。「その本は存在している。何故なら、神が見ているからだ」と。その問いに対する答えは、神が見ているかどうかはともかくとして、少なくとも認識されることなく存在するものはないということを伝えようとしています。

 これらの話は形而上学的悪ふざけに聞こえるかも知れませんが、最近の量子力学では、量子は確立的に存在し、観察者が観測することによって状態を確定させるそうです。何言ってんだ?って話ですが、どうやらそうなのだそうです。

 ここまで例に挙げた話で、僕が何を伝えたいかというと、存在にはそれを認識する者が必要であるということです。存在だけが存在しても、認識されないのであれば、それは存在しているとは言えないということです。例えば、何もない無の中に宇宙が存在したとして、それは存在したと言えるのでしょうか。その宇宙はその内再び無に消えていきます。無から宇宙が生まれそして無に帰すとするなら、そして誕生した宇宙は誰にも認識されないまま消滅するとするなら、やはりそこには無しかなかったのではないかと思うのです。

二つに分かれたことの神話風の説明

 神の動機を人が語るのも、神の矮小化のようで気が引けるのですが、神話的な解釈とみなしてもらえるとありがたいです。おそらく、原初にあった何者か、それを神と呼んでも良いのでしょうが、その者は存在を確定させたかったのだと思います。ここで、ここからは存在という言葉の使い方にもう少し注意を払いたいと思います。一般的な意味で使う場合は『存在』、存在を確定した状態は『実在』という言葉を使い分けることとします。

 それは実在したかったのか、それとも実在だったからか、認識される必要があったのだと思います。なぜ実在したかったのかという問いには、存在してしまったからだという他ありません。存在してしまったことによって、無に帰す恐怖が生まれた。その無に帰す恐怖から逃れるためには、存在を確定しなければならなかった。そして、認識される為には、認識する主体が必要だった。その時同時に客体が生まれた。ここで主体と客体という二元的分離が起こります。元々は同じだったものが、意味として二つに分離したのです。主体が自我で、客体がセルフです。ここまでが、元々一つだったものが、自我とセルフに分かれたことの、神話的説明になります。

自我セルフ軸の役割

 自我セルフ軸は、自我とセルフを繋いでいる棒のように見えます。自我とセルフはそれぞれに私という実感をやり取りしますので、繋ぐという前提を考え合わせれば、中が物を通過するパイプと言った方が、イメージは近いのかも知れません。ただ、僕は繋ぐというイメージより、『分つ』と言った方がより相応しいのではないかと考えています。つまり、主体と客体という、相反する二元性がもたらす反発力が、自我セルフ軸の本質ではないのかと考えています。

 この世界は、分離以降、二元性の世界です。この世に存在するあらゆるものは、相対する二つの極によって成り立っています。このことは『私』と、非二元について思うこと 2でも述べていますが、もう一度説明しておきます。主体と客体のように、善と悪、幸せと不幸、豊かさと貧しさ、男と女、数え上げても意味がありません。全てがそうなのですから。固有名詞はそれのみによって成り立っているように見えても、それが存在することによって、それ以外のものが存在するという相対的二元性を持っています。つまり、この世界の全ては二元性によって成り立っていると言って良いのです。

 二元性は、それぞれが相反し、反発し合うということを前提とします。僕はこの反発力が、自我セルフ軸だと感じています。これも例えとしてのイメージではありますが、磁石のS極とS極、ないしはN極とN極が反発するような感覚です。つまり、磁石の同じ極どうしの間で反発し、押し広げようとしている磁力線が、自我セルフ軸ということになります。それが、僕が繋ぐというイメージより、『分つ』と言った方が相応しいのではないかと言ったところになります。ただ、繋ぐとは言えないのかといえばそうでもなく、押し合うということはお互いに影響力を与え合うという意味で繋ぐとも言えるかとは思います。

悟りとは何か

 繰り返しますが、ユング心理学では悟りとはその自我セルフ軸が崩れ、自我がセルフの中に落ち込み一体になってしまった状態だと言います。僕は以前、自我はアートマンの仮面だと言いました。仮面を外せば、自我は認識主体としてのアートマンです。そして、セルフは自己であり、アートマンであると。つまり、認識主体としてのアートマンは、認識される客体としてのアートマンと一体になるのです。ただ、アートマンはアートマンに落ち込むのであり。客体としてのアートマンを、他者として錯覚させていた自我セルフ軸は既に崩れて存在していません。自らとしてのアートマンが、自らとしてのアートマンを認識するのです。

 それは、何にも映さず自分で自分の顔を見るようなことです。それは超えることが不可能に思えるような矛盾を含んでいます。ただ、時としてそれは起こるのです。

 僕は、認識されることによって、存在は実在になると言いました。それなら、こんな矛盾を超えてまで自分で自己を認識しなくても、他者から認識されれば良いのではないかという疑問を感じるかも知れません。ただ、それではやはり駄目なのです。それは認識という行為が、間接的な手段だからです。僕たちは、意識に映し出されたものを、認識しているに過ぎないからです。

 例えば、山を認識しても、それは意識に映し出された山を認識しただけで、直接山を認識したわけでありません。音も匂いも触覚も、思考にしてもそうです。僕たちに認識されるこの世界の全てのものが同じです。それらは意識に映し出されたただの投影であり幻です。幻によって、実在を証明することはできませんし、僕たちは自分の存在を意識の投影としてしか認識できないために、自分が幻としての存在以上の存在に対する実感、つまり実在する事実を探し求めないといけなくなるのです。

 では、その意識に映し出された幻ではない実体を認識することはできないのかということになります。唯一、認識する『私』自身を認識するなら、それは可能だと言えます。それは比喩としての、何にも映さず自分の顔を見るという行為です。そして、それは、比喩としてではなく矛盾した不可能な行為なのです。

 しかし、その方法でしか、自分を実在させられないのも事実です。

 それは、認識主体としての自分と、認識客体としての自分を一体とさせる行為です。アートマンの仮面としての自我が、アートマンに落ち込み一体になった状態です。主体と客体に分裂されていたアートマンは、再び一つに戻ります。ただ、その時の一つという状態は、分裂が起こる前の一つという状態とは違います。認識する者と認識される者、主体と客体は混ざり合い一つになっているのです。一つの内側で、私は私を認識します。そして、これが悟りであり、唯一の実在する状態です

悟りを開くためには

 それでは、その悟りを得るためにどうすれば良いのかという問いを持たれるかと思います。それに関して、僕は明確な答えを持っていません。しかしながら、現代社会には、禅やヨーガ、瞑想やセミナー、さまざまな悟りを得るためのノウハウが溢れ、誰もがそれらにアクセスできる状況にあります。ただ、どれもが具体的な方法を示せても、具体的な成果を示せるものではないでしょう。しかし、それで良いのです。むしろそれだから良いと言えます。

 そもそも、悟りとは自我によってコントロールできるものではないからです。自我は所有しコントロールしようとする特性があります。しかし、悟りはその自我を破壊し超越する行為です。そこにあるのはコントロールではなくハプニングです。逆に成果を保証する方法があるなら、それは嘘か勘違いです。

 ただ、それだけだとやはり詰まらないと思うので、ユング心理学の書籍に書かれていた情報を記載しておきます。

 自我セルフ軸に強烈なストレスが加わえると、自我セルフ軸が崩れ悟りの状態が起こるとのことでした。ただ、そのような巨大なストレスを心に与えるのは実質的には不可能だとも書かれていました。やれやれ、結局不可能なのかというところではありますが、心身を追い込む苦行のような行為も無意味ではないのかもとは思います。

 僕個人の見解としては、主体としての私と、客体としての私の間にある反発力を一瞬でも無効化できれば良いのではないかと考えています。そして、一瞬の無効化は、相反する二元性を凌駕する気付きによってもたらされると思います。

 ちなみに気付きは偶発的にもたらされるハプニングであり、自我によるコントロールを超えています。気付きの対象になる二元性は、その二元的相対関係に関するものであれば何でも良いと思います。生と死、有と無、善と悪、富と貧、その相対関係の間にある緊張を消失させる発想なら何でも良いのです。そうすれば、主体としての私と客体としての私との間にあり、それらを分け隔てている反発力、つまり自我セルフ軸は取り払われ、主体である私は主体のまま、客体のままの私に落ち込み一体と成ることになります。

 それは、何にも映さず、私が私を見るということであり、二つの分裂がなくなり、一つに成るということでもあります。つまり、不二一元論のことですね。そして、梵我一如であるならば、それは宇宙の根本原理に触れる体験でもあります。

 ここまでこの記事を読んでくれた人は、きっと『悟り』に興味のある人だと思います。そして、憧れを持ち、悟りたいと思っているかも知れません。そういう人に分かってもらいたいことは、悟りを得ることはほぼ不可能だということです。ただ、あたかもそれは気紛れででもあるように、時として誰にでも起こるのです。

 

 

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