『君たちはどう生きるか』を、どう読むか 6

精神世界

※この記事は物語の時系列に沿って進んでいきます。まだ読んでない方はこちらからお読み下さい。

 夢から覚めた眞人は、サギ男の助けを借りインコの台所から脱出し、捕まったヒミの救出に向かいます。ヒミは透明なカプセルの中で意識を失ったまま眠っています。インコのリーダーであるインコ大王がインコ達に演説をしています。喝采を受けるその姿はあたかも英雄のようです。ただ、インコ大王は何一つ冒険をしていません。見た目を飾っただけの偽りの英雄です。

 インコ大王は要求を突き付けるために大叔父の元に向かい、ヒミを助けようとする眞人とサギ男はインコ大王を追います。結果的にヒミと眞人は再会を果たし、大叔父の居る巨大な石の浮かぶ草原へと向かいます。

13個の積み木と素数、リーマン予想に関する考察

 眞人が見た夢で告げられていたように、ここから物語は積み木を中心に進みます。大叔父は自分の役割を眞人に引き継いでもらうことを希望します。大叔父は積み木を積むことによって世界を維持しているのです。そして大叔父は眞人に「ここに穢れていない13個の積み木がある。3日に1つ積みなさい」と言います。そして、大叔父の希望を拒否した眞人に、「帰ってもいい。石を積め。3年に1つずつ」とも言います。それは、大叔父の遺言のようなものです。無論、これらの言葉には意味がありますし、その数字にも意味があるはずです。

 空中に浮かぶ石を、他の物語と比較することで、真理に類するものを象徴していると仮定しました。真理や神といった絶対的な唯一無二のものです。ヒンドゥー教には、不二一元論という真理を表す考えがあります。二つのものはなく、唯一究極的な存在だけがあるという考え方です。仏教では、唯識論において、主体と客体(認識するものと認識されるもの)が一つになったとき悟りの境地であると言われます。キリスト教の最も力強いシンボルは十字架です。十字架は縦と横が一つに組み合わさったものです。おそらくプラトン主義に倣っていると思うのですが、最近のスピリチュアルムーブメントでは、究極的存在を一なる者などと言うこともあります。

 ともかく、究極の存在を、一と言い換えることができ、一は真理と言い換えることもできるものだと見なしてください。

 大叔父の仕事は、積み木を積むことで均衡を保ち世界を維持することにあります。そして大叔父は真理である石に仕えています。真理の力によって、世界を維持しているのです。積み木は、真理と下の世界を繋き、絶対的な根拠をもたらす梯子のようでもあり、もちろん下の世界そのものの象徴でもあります。

 それでは、その世界とはどのような世界だったでしょうか。それはある者からは良く見え、別な者からは悪く見える二元性の世界です。これは現実の世界も同じです。ほく達は、世界を二つに割って、その片方を生きています。一に象徴される絶対的な真理から、切り離された世界です。

 では、どのようにすれば真理に基づいた世界を築けるのか、その方法が「3日に1つ積み木を積んで、13個の積み木の塔を作る」と言うことです。1という数字に関しては説明しました。それでは、3と13という数字はどういう意味を持つでしょうか。これらの数字は素数です。ちなみに、眞人の夢の中で、大叔父が積み、鉛筆でつついてバランスを確認したときの積み木の数は7個で、この7という数字も素数です。

 素数とは、1か自分でしか割り切れない数字です。真理に還元されるか、そのままでしか居れない数字で、少なくとも二つに割ることはできませんし、約することもできません。その性質から、数の原子と言われることもあります。数学の未解決問題には『リーマン予想』というものがあって、全く僕も理解していませんが、素数の振る舞いに関する問題だそうです。そして、素数の一見ランダムな配列の背後に、神の意図を感じるとさえ言う者もいます。そのような数字を使うことによって塔は安定し、世界は崩壊を免れるのです。

 ただ、せっかくの穢れのない積み木で、1と素数を使って作る塔なのに、眞人は大叔父の要望を断ってしまいます。理由は、眞人は頭に傷を追って、その傷が悪意だからです。いくら、積み木が悪意なく汚れのないものでも、塔を積む眞人自身に悪意があれば、意味がないということだと思います。

 それではここで、夏子を下の世界へ連れてきたのが、石の意志であることを考え直してみましょう。石は何故、夏子を産屋に入れて子供を産ませようとしたのでしょうか。おそらく、石は積み木を積む後継者に、まだ分別のない赤ん坊が欲しかったのかも知れません。一つのことが、誰かから見れば善で、別の誰かから見れば悪になる。これが二面性で二元性であると説明しました。そして、これをもたらしているのが、人間の持つ分別という判断です。分別のない赤ん坊なら、これを防げる。眞人の言った作り手側の欠点を補えると、石の意思は考えたのかも知れません。

大叔父の希望を断ることの意義

 眞人が大叔父の希望を断ったのには、もう一つの意義があると思います。そしてその意義こそが、この物語を、少年が冒険の末に強敵を打ち倒し、成長し個人として自立するという、典型的な英雄の神話としての体裁を成り立たせているのです。

 NHKのドキュメンタリーの中で、宮崎駿監督は大叔父のモデルは高畑勲であると言っていました。高畑勲は宮﨑駿にとっての師であり、尊敬する先輩でもありました。それは宮崎駿にとって、人生を生きる上での理想像だったのではないでしょうか。飛躍しているように思われるかも知れませんが、それはある意味究極的に神格化された父親です。

 眞人には現実の父親が居ます。ただ、宮崎駿は、高畑勲に現実以上の父親像を投影していたのかも知れません。だからこそ、現実以上の父親である、大叔父という存在を登場させる必要があったのでしょう。前途した心理学者のユングは、老賢者という元型的概念を定義しました。それは、それは父性の究極的到達点ではないかと思います。その究極的父とある意味決別することによって、少年は個人として自立することになるのです。そして、この作品は、宮﨑駿の高畑勲からの自立であり、別れの挨拶だったのかも知れません。

 それから、この物語の中では、ヒミやキリコ、そして夏子といった母性を象徴するキャラクターが目立ちます。しかしながら、それもまた必然なのではないかと思います。この物語は、テーマとして父性との対決とそこからの自立という意義を含んでいるからです。父と戦うときは、時として、母の助けが要るものなのです。

インコ大王が積み木を一刀両断にすることの考察

  大叔父と眞人の会話に割り込むように、後をつけて来ていたインコ大王が割り込んできます。「このような積み木に、帝国の運命を委ねるのか」と言って、一気に積み木を積み上げていきます。ただ、最後の13個目の積み木がどうしても積めません。インコ大王は『〜〜でなければならない』『〜〜してはいけない」といった思考をする人で、二元性の権化のような人物です。だからこそ、最後に残った13という素数を積み上げることができません。

 そこでインコ大王がとった行動が、刀によって積み木の塔を、二つに切り裂いてしまうという暴挙です。これによって、一つなる者としての真理は二つに切り裂かれ、数の原子としてそれ以上分割できない素数が切り裂かれます。つまり、真理の真理たる所以は崩壊してしまいます。そして、真理の力によって維持されていた世界自体が崩壊を始めてしまうのです。崩壊が始まり、抽象的な背景に飲み込まれ崩れていく大叔父の積み木の塔は、8個の積み木で作られていました。

7に続く

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