『君たちはどう生きるか』を、どう読むか 3

精神世界

※この記事は物語の時系列に沿って進んでいきます。まだ読んでない方はこちらからお読み下さい。

 キリコの家のある巨大な廃船で、眞人と青サギであるサギ男は再会を果たし、行方不明になっている夏子探しが、本格的に始まります。行程の途中にある鍛冶屋の家を訪れますが、そこはインコに占拠されており、眞人は危うく料理され食べられてしまいそうになります。もう一度眞人はインコに食べられそうになるのですが、下の世界では食物連鎖のヒエラルキーが破壊されています。食べる者と食べられる者の立場が入れ替わってしまうことは、童話などでは良くあることだと思います。そこは、常識が通用しない不思議の世界なのです。

 すんでの所で、眞人は炎の中から現れたヒミによって助けられます。ヒミは火の魔法を使い、火の属性を持っています。割とあっさりバラされるのですが、ヒミは火事で焼け死んだ眞人の母・久子の少女時代の姿なのです。眞人が知ることはありませんが、久子は幼い頃の一年間行方不明になっていたことがあって、その間、塔の中の下の世界でヒミとして暮らしていたのです。この世界では時間軸すら一定ではなく、過去と未来が混在しながら時を刻みます。その設定を使って、満たされず納得もされないまま終わった、母と子の愛情が成就するという見事な仕掛けになっています。

 ヒミは、夏子がこの世界で子供を産むことを望んでいるから、上の世界に連れて戻ることは出来ないということを伝えます。それでも、眞人は諦めず夏子の居る産屋に連れていくことを要望します。

産屋に関する考察

 眞人の要望を聞き入れ、ヒミはインコの目を盗みながら産屋へと向かいます。その産屋は禁忌によって入ることを許されません。近付くだけで、ヒミや眞人の皮膚の上で、痛みを伴う赤い火花のようなものが弾けます。これが禁忌によるものかなのかは分かりません。ただ、ヒミは火花の飛ぶ現象に対して、「石はわたしたちを歓迎してはいない」と言います。石というのは、宇宙から落ちてきて石の塔の基礎となり、後半、大叔父の頭上に浮かび彼に力を与えている石です。つまり、その石は産屋での夏子の出産を望んでいるということになります。そして、大叔父は眞人に自分の後を継がせようとしているのですから、子供を産ませるために夏子を誘い込んだのは、石の意志だということになります。ここで重要なことは、石も意志を持っているということです。このことに関しては、後でもう一度触れます。

 結果的に、眞人は禁忌を破り、産屋の中に入ります。産屋の中では夏子がベッドに寝かされ、天井には丸い二重の輪が吊るされ、その輪に無数の白い紙が貼り付けらています。眠っている夏子に眞人は近付き、名前を呼びます。目を覚ました夏子は「あんたなんか嫌いよ!」と、眞人に対して叫びます。おそらく、それは夏子が抑圧していた眞人に対する本心だったのでしょう。眞人が夏子を嫌っていたように、夏子もまた眞人を嫌っていたのです。そして、その瞬間、輪に貼り付けられた紙が眞人を攻撃し始めます。紙は眞人の顔に張り付き、剥がしても剥がしても次々と襲い掛かり、夏子と眞人を引き離そうと試みます。

 ここで産屋とは、夏子の子宮の象徴ではないかと考えます。日本には古来胞衣信仰というものがあります。出産の終わった後の胎盤自体を神聖視して信仰の対象とします。そこでは、胎盤に見立てた、布をぶら下げ境界とすることがあるとも聞いたことがあります。それは輪に貼り付けられ吊るされた紙にイメージが重なります。

 夏子に拒否され、紙に襲い掛かられても、夏子のことを「夏子母さん」と何度も何度も呼び続けます。突き進む眞人の叫びは夏子の心に変容を呼び、夏子の表情が眞人を受け入れたように母性を獲得していきます。ただ、それでも禁忌による拒否は抗えなくなっていきます。引き離そうとする圧力が限界に達し、眞人は産屋から押し出されます。産屋が夏子の子宮だとすれば、これは夏子の子宮からの、夏子の子としての眞人の誕生になります。ヒミの魔法により、紙は焼き払われますが、焼き払われた後の産屋の奥に、石の墓と同じような石組みが見られます。それは、まるで石の意思を表しているようにも思えました。その後直ぐに石の反撃的な攻撃により、ヒミを含め二人は失神してしまうことになります。

 もし産屋が子宮の象徴だとするなら、ヒミは自分の子供が、自分の妹の子宮から生まれ出ることを手伝ったことになります。しかし、これは不可解な行動ではありません。血によって繋がっている女性は、子宮を共有している感覚を持つことがあるということなのです。例えば、母が娘と一つの子宮を共有しているという感覚を持つということです。母は、自分の子宮から産み出した娘の子宮から、再び産まれ出る感覚を持つことがあるということなのです。そうであるならば、ヒミからすれば、妹の子宮から自分の息子を産み出すことは、自分の子宮から産み出しているのと同じ価値を持つということになります。少なくとも、これ以降の夏子は、それまでの性的存在としての女性から、母の顔へと表情を変えます。

メタファーとしての近親相姦の考察

 これは蛇足になるかも知れませんが、この映画の細部に、そして全体に近親相姦的な要素が散りばめられているように思います。いくら西暦1944年という時代的な背景があるにしても、妻を亡くしたばかりの勝一が妻の妹と結婚し妊娠させたり、母の妹を母と読んだり、産屋に行くまでのシーンで、母であるヒミと眞人が手を繋いで時の回廊を駆け降りたり、後のシーンでは再開した眞人に、ヒミが飛び付いて抱き締めたり、それは母と子の愛情というよりは恋人同士の愛情表現にも似ています。

 例えそれが近親相姦のメタファーであったとしても、近親相姦が許される状況があります。それは、神話の世界での話です。その禁忌もまた神話の中では簡単に破られ、エディプス王の話を持ち出すまでもなく容易く受け入れらることなのです。そしてそれは、この物語が単なるファンタジーを超え神話の領域にあることを示し、物語の中ですらメタファーではありますが、愛する女性たちを巡るライバルとしての父を越え、眞人が大人の男になるのに一役買っているのではないかとも思えます。

 蛇足の次に、さらに邪推を続けるとするなら、ラスト近くの塔の崩壊のシーンで、上の世界に戻れば火事で死ぬ運命であることを知らされたヒミは「火は平気だ。素敵じゃないか、マヒトみたいな子を産むなんて」と言います。ヒミは自分が火事で死ぬ運命を、いとも簡単に受け入れます。近親相姦のメタファーを踏まえるまでもなく、子供は男女が愛した結果産まれます。この映画の中で、ヒミ=久子が愛した男性は眞人だけです。勝一との愛情は一切描かれていません。愛という原因があり、出産という結果があるのなら、ヒミは眞人を愛し、眞人を産みます。原因と結果が一つになっています。これは、永遠の象徴である、自らの尾を噛むウロボロスの蛇です。頭と尾、原因と結果、二元的対立が一つになることで、ウロボロスは永遠に成長することができるのです。

 ヒミは眞人を愛し、その結果眞人を産むことによって、自己の永遠性を獲得していた、ないしは獲得するのかも知れません。だからこそ、それは悲劇ではなく、素敵なこととして容易く受け入れられたのではないのでしょうか。

4に続く

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