高野山で非二元と出会う 4

精神世界

 この記事は、高野山で非二元と出会う 3からの続きになります。できれば、最初の記事から読んでください。

密教はヒンドゥー教なのか

 前の記事では、密教とヒンドゥー教の類似性を比較し、高野山の深層を旅してきました。しかし、知れば知るほど、『似過ぎてはいないか?』と思うようになるのです。

 無論、仏教の一派である密教と、ヒンドゥー教が似ていることには疑問を感じるところではありません。仏教はヒンドゥー教の前身であるバラモン教を否定する形で生まれてきました。お釈迦様が修行していた当時のインドでは、バラモン教の枠に捕われず修行する修行者がたくさん居たのだそうです。その中の一人がお釈迦様だったのです。お釈迦様は単に自分が悟った真理を人々に伝えただけだったのだと思うのですが、結果的にはバラモン教を否定する形で仏教という新しい宗教を大成してしまったのです。かたやヒンドゥー教は、人気がなくなり衰退したバラモン教に、土着の宗教などを吸収することによって発展しました。否定するにしろ、発展させるにしろ、両者の思想的インフラはバラモン教に由来する同一のものを共有していると言って良いと思います。

 更に、密教が起こった当時のインドではヒンドゥー教が隆盛し、意図的にヒンドゥー教的要素を仏教に導入したとも聞いています。密教にヒンドゥー教的要素が認められるのも当然のことなのかも知れません。しかし、即身成仏においては、個我である『私』が認められているのです。それは、ヒンドゥー教の元であるバラモン教から仏教が独立した宗教となった理由でもある『私』、つまりアートマンの否定、『諸法無我』の教えに反しているようにも思えます。

 諸法無我は、三法印、四法印に含まれる仏教の根本理念であり、仏教のアイデンティティと言っても良いものです。更に個我と一つである大日如来が過去、現在、未来の三世に渡り存在してしまうことから、同じく三法印、四法印に含まれる『諸行無常』の教えにも反しているように思えます。もし、密教がアートマンを認めているのであれば、それ即ちヒンドゥー教なのではないかとさえ思えてしまうのです。

諸法無我の教えに反せず、個我は存在し得るのか

 実際、海外の研究者などには、密教を仏教のメソッドを使ったヒンドゥー教のように見なす者も居るようです。ただ、密教がそれでも仏教を名乗り続けている以上、『私』を廻る問題は密教的には解決、ないし回避されているのだろうと思います。ただ、僕はその明確な理論を知りません。推測するなら、唯識と心相続(しんそうぞく)を根拠にしているのかとも思えます。心相続とは、一瞬一瞬新しい自己が生まれては消えてゆき、結果的に連続する自己があるように見えるという考え方です。それに、唯識の八識の内の阿頼耶識(あらやしき)が影響し、あたかも恒常普遍の自己が存在しているように見えるというものです。僕としては、それで理屈は通るのかも知らないけど、少々無理していない?素直にアートマンの存在を認めた方が楽じゃない?って思うところです。

 何を言っているんだと思われるかと思いますが、安心して下さい。僕も十分には理解していません。要は、私はいないけど、あたかも私が居るように見なすことはできるというところだけ押さえておいていただければ結構です。ただ、そうだとしても、認識の主体を司る『私』は存在するだろうと思うのです。そうでなくては金胎不二の思想は成り立たない訳です。金剛界曼荼羅には主体という意味が象徴的に含まれていて、胎蔵曼荼羅には客体が含まれます。だからこそ、この二つの曼荼羅は、両部曼荼羅という一つのものになり得る訳です。そして、主体と言うことは、『私』であることであり、認識することと等しいとみなせます(この部分の論理は、直感的理解が必要です)。

 これも、唯識の理論を使って、回避できるかも知れません。唯識における悟りは主体と客体が一体になることです。ヒンドゥー教の不二一元論は、仏教の唯識思想の影響を受けているとも思われます。それが、不二一元論を大成させたジャンカラが、仮面の仏教徒と称される所以ではないのでしょうか。ともかく、主体と客体が一つになれば、主客の区別もなくなる。ほら、認識主体である私は無くなったでしょ?という理屈です。

 しかしながら、二つのものが、一つになったからと言って、それぞれがなくなったわけではありません。混ざったというか、それぞれ対立する相対的状態が、反発力を無くし、同時に一つの状況に共存できている状態になったというだけのことです。金剛界曼荼羅の中には胎蔵界の仏が描かれ、胎蔵曼荼羅の中には金剛界の仏が描かれています。それは、対立するものでありながら一つのものに共存し得ることを示しています。

お釈迦様は、諸法無我なんて言っていない

 そもそも、僕は、お釈迦様が「私が存在しない」と言ったとは考えていません。お釈迦様は「それは、私ではない」と言ったのだと思っています。つまり諸法無我ではなく、諸法非我です。それが中国に渡って翻訳されたとき間違って翻訳されてしまったのです。このことは、宗教学者の中村元先生が、『おそらく』という断った上でではありますが、言及されておられました。

 例え話によって説明しますと、自分のお金を指して、それは本当の自分ではない。自分の社会的立場を指して、それは本当の自分ではない。自分の肉体を指して、それは本当の自分ではない。自分の思考を指して、それは本当の自分ではないと、本当の自分ではないものを指し示すことによって本当の自分の輪郭を浮かび上がらせようとしたのです。つまり、お釈迦様が指し示そうとしたのは、私は無いということではなく、あくまでも本当の私が存在するという事実なのです。

 何故、お釈迦様がこのような誤解を招きかねない間接的な手段を取ったのかということについては、本当の私は直接的には示し得ないものだからということにつきます。ここで、再び道家の思想を例に出しますが、究極的な存在である『道』を説明するとき「〜〜は道ではない」を繰り返します。それは、もちろん『道』を直接に説明することができないからです。ヒンドゥー教でも同じように、アートマン以外を、アートマンではないと否定することによって、アートマンを説明しようとするそうです。映画で直接視覚化できない透明人間を見せたいときに、雨粒や血液や蒸気を使い輪郭をなぞることによって、直接的には見えない透明人間の姿を描き出そうとするのと同じ手法ですね。

 つまり僕が何を言いたいかというと、アートマンの存在を認めたからといって、密教が仏教ではなくなりヒンドゥー教になる訳ではないということです。元々、仏教はアートマンを否定はしていないからです。仏教を仏教たらしめると考えられてきた『諸行無常、諸法無我』の解釈の方が、そもそも間違っていたのです。その間違いに無理やり整合性を持たそうとしたため、仏教は改築を繰り返した熱海の旅館のようにどんどん複雑になっていってしまった。もちろん個人的な意見ですが、密教は、アートマンとブラフマン、つまり、個我と真我を認めてしまって良いと思います。その方が、お釈迦様が伝えようとしていた本来の教えに、より近付けるような気がするからです。

高野山で非二元と出会う 5に続きます

コメント

タイトルとURLをコピーしました