高野山で非二元と出会う 5

精神世界

 この記事は高野山で非二元と出会う 4からの続きになります。良ければ、最初の記事から順に読んでいっいただければ有難いです。

化身は多神教を一神教へ変容させることができるのか

 密教とヒンドゥー教の共通点について、もう一つだけ触れておきます。それは、化身という考え方です。『〇〇という神は、別の〇〇という神の化身であり、本質的には同一の存在である』という考え方です。そして、この化身という考え方が、高野山の密教を仏教の中でも特異な存在にしているのではないかと考えさせます。

 先ず、ヒンドゥー教は、もちろんですが多神教です。中心になる神様だけでも三柱居ます。ブラフマーとヴィシュヌとシヴァであり、単一の存在から顕現する三つの機能の相違と考えられています。ブラフマーが創造、ヴィシュヌが維持、シヴァが破壊を担っているのです。これらの神々は同一の力を持ち、三柱の神で一つの神を構成します。この構造を三神一体と呼びます。キリスト教の三位一体と、ほぼ同じ考え方ですね。

 ただし、ヒンドゥー教において、この構造はそれ以外の神々へも、化身という考え方を通して派生していきます。例えば、ヴィシュヌの化身がクリシュナだったり、シバの化身としては孫悟空のモデルとなったハヌマーンなどがいます。ちなみに、ヒンドゥー教の中ではお釈迦様ですらが、ヴィシュヌの化身と見なされています。

シバの化身 カーラ・バイラブ

 もしかすると少々乱暴な言い方になるかも知りませんが、すべての神が本を正せば三柱の神に到達し、これら三柱の神は三神一体の思想により一つです。つまり、一つの絶対的な存在しか居ないのです。このことによって、ヒンドゥー教は一神教的多神教と呼ばれることもあります。

化身という考え方が生まれた背景

 この化身という考え方は、三輪身(さんりんしん)という概念となって、密教にも導入されています。密教では、あらゆる仏が大日如来の化身とされ、それは仏だけに止まらず我々衆生を含め、川や山、森羅万象へと広がっていきます。詰まるところ、この世のすべてが大日如来の化身なのです。ちなみにお釈迦さまがヴィシュヌの化身とされたように、ヒンドゥー教のブラフマンの神格であるブラフマーも仏教に導入され、梵天という仏になり、密教では大日如来の化身とされています。おそらく、他宗教から信者を奪い、自身の宗教の格を上げる企みがあったのではないかと思います。

「あなたの信仰してる神様うちにもいるよ。ただ、あなたの神様はうちの神様の化身で、うちの神様の方が格上なんだ。あなたは、うちの神様を信仰することで、いままでの神様を信仰したまま、より優れた神様を信仰できるよ」と言った具合です。確かに、それなら信仰対象を変えずに、違う宗教に宗旨変えすることができます。神を裏切ることもなく、心理的抵抗はそれほど大きくないと推測できます。

 あくまでも結果的にということではあるのですが、密教の教主たる大日如来は、一神教の神と同じような絶対性を持つことになったのです。

絶対的真理と、寛容の共存

 ともかく化身という考え方を導入した結果、密教は一神教的特徴を手に入れました。それは唯一絶対ということです。多神教は汎神論的な包容力を持つとは思いますが、唯一絶対の真理を説くには不向きなのではないでしょうか。様々な神が、限定的な範囲内で真理を語ることはできるでしょうが、真理が複数存在することで、すべてを統べるような絶対的な真理を持つことはできません。しかし、一神教であれば、唯一絶対の真理を持つことは可能です。そして、人間は唯一絶対の真理を求め、それを拠り所に自己の永遠性を見出そうとしているのではないのでしょうか。

 メディアの発達した現代社会で、世界は多様性に溢れています。それは素晴らしいことに見えますが、実のところ方向性を見失って泣き叫ぶ迷子のようにも思えます。多様な差異を貫く一貫した唯一の真理が必要なのではないかと思うのです。一神教になら、おそらくそれができます。ただ、それは同時に極度の危険性も含みます。他者に対する不寛容と独善です。そして、真理が言葉にできないものである以上、結果的には不寛容と独善しか残らないのも現状です。ただ、それが一神教的多神教の密教であるなら、両者の良いところだけを抽出することが可能なのではないだろうかとも思うのです。

真理    と    慈悲

 つまり、唯一絶対の真理を説きながら、他者に対する寛容と慈悲を持つという相反する態度が可能なのです。

円環のほとりで

 ここで、唯一絶対の真理と、他者に対する寛容と慈悲という、対になる二つのものが再び現れます。始まりに戻りますが、このことは金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅において、予言のように示されていたのだと思います。金剛界曼荼羅は大日如来の智慧の世界であり、胎蔵界曼荼羅は大日如来の慈悲の世界でした。二つのものを見付けたことから始まった高野山の隠された深層を廻る旅は、結局、二つのものを見付けることで終わるのです。

大日如来

 始まりと終わりは繋ぎ合わされ、出来上がった円環の中から、あなたは何を見詰めることになるのでしょうか。

おしまい

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