高野山で非二元と出会う 3

精神世界

 この記事は、高野山で非二元と出会う 2からの続きになります。最初の記事から、順に読んでいただけるとありがたいです。

指し示される、一つのものとは

 高野山に対をなす二つのものが数多く準備されているのは、相対関係を超えて一つになるためだと書きました。それでは、その一つのものとは何なのでしょうか? 前の記事では、『道』であったり、真理であると書いていますが、もう少し詳しく説明していきたいと思います。ただし、このレベルの話になると、言葉による説明の限界を超えてしまうこともお断りしておきます。つまり、読者である貴方に、相応の努力と忍耐を強いるかもしれないと言うことです。

 金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の持つ意味に、主体と客体があるとお話ししました。金剛界曼荼羅が主体を表し、胎蔵曼荼羅が客体を表します。当然、主体と客体という二つのものは、対になるもので相対関係を待ちます。これはおそらく唯識の思想からきているのだと思います。ヒンドゥー教の不二一元論も、この唯識の思想に強く影響を受けるものだと感じています。それでは、不二一元論以前に、主体と客体の相対関係を扱った思想はあるのでしょうか。もちろんですが、あります。それがかの有名な梵我一如の思想です。

 梵我一如に関しても、このブログで何度か触れてますが、アートマンとブラフマンという対になる相対関係を、さらにそれらが一つになることを示しています。そもそも梵我一如は不二一元論の元になる思想であり、同一の思想のバージョンの違い程度に考えることもできます。アートマンは個我のことであり私という主体を示し、ブラフマンは宇宙の根本原理であり客体です。そして、それらが同一であることを直感的に知ることで悟りを開き、至福に至ろうとする考えです。不二一元論よりも、悟りの経験における主体と客体の関係に拠っているというか、偏っているという印象を受けます。

高野山に梵我一如を見出す

 ヒンドゥー教の不二一元論が、金胎不二、両部不二と同様の思想であるなら、梵我一如と同様の思想は高野山にあるのでしょうか。僕はあると考えています。そしてそれこそが、金胎不二、両部不二と同様に、高野山が秘める最も深遠な思想である『即身成仏』です。

 即身成仏とは、現世でこの身のまま仏になるという考え方です。通常、仏教で悟りを開くのには、輪廻を繰り返し、三劫(さんこう)というとてつもない時間が必要であるとされてきました。それが密教では直ぐこの身のまま悟りを開き仏になることができると説くのです。悟りの大安売りのように思われるかも知れませんが、お釈迦様やその弟子たちも、その身のまま悟りを開いているのですから、即身成仏の方が本来の悟りの姿だと思われます。お釈迦様もその前世でとてつもない時間修行してきたと言う人もいると思いますが、悟りや仏というものに箔を付けたいという気持ちが作り出した後世の創作だと思います。

即身成仏を更に詳しく

 さて、それでは、その即身成仏は、どのような状況になれば実現できるのでしょうか。伝えられているところによると、鑑賞者である個我と大日如来が一つになった時にそれは起こるということなのです。この大日如来という部分が、真我と記載されている場合もあります。ここまで書けば思い当たる方も多いと思いますが、個我はヒンドゥー教におけるアートマンであり、大日如来または真我はブラフマンで、それらが一つになることにより悟りを得るというところが、梵我一如の思想と同じです。

 つまり、認識主体であった鑑賞者が、客体である宇宙の真理と一つになった状態、悟りを開いて仏となった状態が、相対関係を超越した一つのものだということなのです。この相対を超えた絶対的ともいえる状態を、密教では『入我我入』と言うのです。そして、高野山のすべては二つのものが折り重なるように広がる蓮の花であると例えました。もしかすれば、高野山そのものが、超越的一つに至るため、つまり即身成仏し入我我入に至るための、装置のようなものと言えるのかも知れません。

 ここまで、高野山の伝える真言密教の教えを、ヒンドゥー教の教えを参考にすることで理解しようと試みてきました。次の記事では、密教とヒンドゥー教の関係に関して、もう少し踏み込んで考えていきたいと思います。

高野山で非二元と出会う 4につづく

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