高野山で非二元と出会う 2

精神世界

 この記事は、『高野山で非二元と出会う 1』からの続きとなります。よろしければ、そちらの方もあわせてお読み下さい。

二つは、一つになるために

 ここまで、高野山には対になる二つのものが数多く存在していることを見てきました。そして、その二つのものの始まりは金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅であり、そこからその関係は花開くように高野山全体に広がり、高野山自体が両部曼荼羅を象っているということも確認しました。そして、元々は別々だった金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅が、あえて対になる存在として両部曼荼羅を形成していることもお伝えしています。つまり、意図的に二つのものは高野山に配置されているのです。

 それでは何故、対をなす二つのものは必要とされたのでしょうか。前の記事で、僕は『一つにするために、二つにしたのだろう』と暫定的にその目的に触れています。ここからは、その意味についてさらに掘り下げていきたいと思います。

 高野山真言密教の教えに、『金胎不二』、『両界不二』という考え方があります。これは表現の違いでほぼ同じ意味と思って頂いて結構です。つまり、金剛界と胎蔵界は別々の二つのものではないと説かれているのです。そして、この否定は、金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の含む意味の、すべてに波及していきます。知恵と慈悲、男と女、聖と俗、主体と客体、左と右、それ以外の対になるあらゆるものに対してです。そして、両界曼荼羅が世界の全てを包括するように、世界の全ては相対性を持つのです。

ヒンドゥー教との関係

 それらは対になる、つまり相対関係を表すためにあえて二つ配置されたにも関わらず、『不二』、つまり二つのものではないと否定されてしまうのです。それでは、二つのものでなければ何なのかという疑問が生まれます。その答えを探るために、参考にしたい思想があります。そして、ここからは直感的な思考が含まれますので、あまり考えず気楽に読んでいって下さい。

 参考にしたい思想とは、ヒンドゥー教の不二一元論です。二つというものはなく、二つと思われていたものは、本質的には一つであるという考え方です。金胎不二や両界不二という思想は、この思想と同じことを伝えようとしていると思うのです。ただ、本質的には一つであるというところがわざわざ書いていないだけだと思います。別々の二つのものでなければ、一つのものに決まっているからです。つまり円を描けば、中心は描こうと描くまいと存在するということです。

『時間は存在しない』を参考に

 もう少し説明を付け加えたいと思います。これは『時間は存在しない』という記事の中で説明した考え方と同じです。その記事の中で、直線の端と端に、始まりと終わりという相対的な存在を配置しました。そして、相対的な二つのものは本質的には一つのものであるという思想を元に端と端を繋ぎ合わせると、線は円環を描くのです。記事の中では、ウロボロスの蛇の姿などに喩えたりもしました。

 これがその時に使ったイメージです。直線の両端には、過去と未来、ないしは始まりと終わりという相対的な前提を含む点が存在しています。ここに設定されるものは二元的対立を含むものであれば何でもかまいません。逆に、直線の両側に設定すれば、どんなものでも二元的対立を否応なしに含んでしまうことになるのです。図の中の過去か未来の位置に現在を置いてみてください。例えば、未来の位置に現在を置いてみて下さい。そうすると、いきなり過去と現代は対立項となり、二元的存在へと関係は変わります。それが二元性というものであり、あらゆるものが二元性を持つということなのです。

 では、両端を持つ直線のイメージを使って、二元性を超越した状態を生み出すことはできないのでしょうか。その問題を両端を一つに繋いでしまうことで解決しました。もう一度断っておきますが、これはあくまでも理解を助けるための象徴的イメージです。

 両端を一つに繋いだ結果として円環が完成します。そして、外周としての円環がある以上、中心が存在することになります。あえて点を打ち中心の場所を示しても良いし、点を打たなくとも円環がある以上、中心はどこかに存在していることになります。不二であることを説明するのは円環を描く行為であり、それらが一つであることを説明するのは、中心の場所に点を打つ優しさかお節介さに過ぎません。そして、この二つのものに依存する相対関係を超越した唯一の中心点こそ、少なくとも東洋の思想が示す真理のイメージなのです。

相反する二つのものが一つになる幾つかの類例

 ヒンドゥー教にはリンガとヨーニというものがあります。リンガは男性器の象徴で、ヨーニと呼ばれる台座に立てられています。ヨーニは女性器の象徴で、単に立てらているのではなく、それは男性性と女性性の結合を表しています。ここでも対になる二つのものは、一つになっているのです。僕は随分前に、リンガとヨーニの祀られている祠のような寺院に入ったことがあります。そこで感じたのは、単に石でできたシンボルではなく、僕の佇む祠の中が巨大な子宮で、そこに巨大な男根が挿入されてくるダイナミックな瞬間でした。つまり、神々の和合の律動する瞬間を、行為の内側から自分が眺めていることを直感的に気付かされたのです。

リンガとヨーニ

 チベット密教にも、男性性と女性性の和合を象徴する仏像があります。ヤブユム、歓喜仏、父母仏、和合仏などと呼ばれる仏像で、男女の仏が抱き合った姿を象り、おそらくはリンガとヨーニと同じ意味を持つと思われます。男性性と女性性は金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅に含まれ、金剛不二の思想により和合しています。

 仏教やヒンドゥー教に限らず、道家の思想にも同じような考え方があり、それを万物斉同(ばんぶつせいどう)と言います。『道』の観点から見れば、善悪美醜などの対立する価値は一切が消滅するというものです。個人的には中心点から円環を眺めた状態と同じだと考えています。つまり、この中心は、道家の言う『道』を指しているとも言えます。

 やはり、二つのものは、一つになるために存在していると言えるのです。それは二の手前にある一ではありません。相反する二つのものの和合がもたらす、超越的一つなるものであり中心なのです。

高野山で非二元と出会う 3につづく

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