あなたは、誰からも好かれたいと思ったことはないでしょうか。誰かから好かれるために、特定の誰かのご機嫌を取ったりしたことはないでしょうか。
会社などで働いていると、上司に気に入ってもらうために、必死で媚を売っている人を見かけます。結果としては、間抜けな上司から気に入ってもらうことはできるかも知れませんが、それ以外の人からは、浅ましいと思われ、うとましがられるものです。それが不特定多数の人に対する、優しさや親切さでさえも、好かれることを目的として意図的に行われているなら同じことです。そんな無理をしなくても、逆に具体的な行動は何もしないで、誰からも好かれ人気者に成れれば良いとは思わないでしょうか。
結果から言えば、あなたなら成れます。もちろん人によって効果に差はありますが、少なくとも現状よりは良い人間関係を築けるようにはなります。そして、それはとても簡単な方法です。ただ、媚を売ったりご機嫌を取ったりすること、つまり意図的に誰かをコントロールすることで人気者に成ろうとしている人には、少々難しいかも知れません。
※ 今回掲載の写真は、特に内容と関係ないです。

誰からも好かれる人とはどういう人か?
ところで、そもそも誰からも好かれる人とは、いったいどのような特徴を持つのでしょうか? 気前の良いお金持ち? 絶世の美女? 善良な慈善家? それらの人々は本当に人気者なのでしょうか。自分の持っている価値を他人に与え、見返りとして注目を集めているだけなのです。それは、媚を売って上司に取り入ろうとしている人と同じです。与えた分だけ、見返りは手に入りますが、与えることを止めればその人気は直ぐになくなり、与えている最中でも与えていない人達からは嫌われます。そういう人は、人から好かれているのではなく、商売上手なだけなのだと思うのです。
それでは、誰からも好かれる人とは、どのような傾向を持っているのでしょうか。あくまでも個人的な見解になりますが、何か特別なことをしなくても、人がその人の周りに集まって来るような人のことを言うのではないかと思います。そして、ここからが本題です。どうすれば、あなたがその様な人間性を獲得できるのかということを考えていきます。
特別なことをしなくても、人がその人の周りに集まってきて一緒に過ごしたくなるようなものは他に何かないでしょうか? それがあるなら、その特徴を真似てやれば良いのです。僕は風にはためく旗や、焚き火の炎、海の波などが、それに当たると思います。それらは何となく眺め、何となく眺め続けたくはならないでしょうか。そして、眺めていると不思議と気持ちが安らぐ。人間でいえば、不思議とその人の周りには人が集まって、つい談笑してしまっているような人と一緒です。

ずっと眺めていたくなるものの特徴
それでは、そのずっと眺めていたくなる三つの現象に共通点はあるのでしょうか。それを見付け出せば、後は真似るだけで事足りるのです。それだけで、あなたの周りには不思議と人が集まり、くつろいだ時間を過ごしていくはずです。とりあえず、海に行って、焚き火を焚いて、ビーチフラッグでもしてみることをお勧めします。共通するその特徴を探してみてください。
つまり、ここからは、海に行って、焚き火を焚いて、ビーチフラッグをするのはちょっと大変っていう人だけ読んでください(きっと全員そうだと思う)。
そこには無理がないのです。風にはためく旗は、無理して風に逆らうことなく上手く風を流します。炎は暖かい空気が上昇しょうとする力が、停滞する空気の隙間を辿って昇っていきます。海の波は生まれた力を自然に広げ、障害物にぶつかればそれに合わせて形を変えます。それらの共通点は、何かとぶつかり逆らうことなく、流れに任せているということです。そこには、こうであらねばならないとか、こうするべきだといったものはありません。ただ、力は無理に突き進むことなく分散され自然へ吸収されていきます。
では、どうすれば、あなたは焚火の炎や、打ち寄せる波や、風にはためく旗になれるのでしょうか。一生懸命訓練してそれらの特徴を学ぶべきなのでしょうか。一瞬たりとも気を抜かず、それらのようにあらねばならないのでしょうか。ここで大きな矛盾が現れます。それらのようであろうとすることが、それらの無理なく自然であるという特徴に反してしまうのです。それらの特徴を真似ようとすればするほど、それらの特徴を失ってしまうのです。まったく、悪い冗談という他ありません。
『それじゃ、そもそも無理じゃん』と思う人も多いと思うかも知れませんが、そのような矛盾を回避する考え方があります。それが道家に伝わる無為という思想です。ここで無為という思想について少し説明しておきたいと思います。

無為と、無為の為
日本では無為に過ごすなどと言い、無意味なこと、無駄なこととして否定的な意味で使われますが、本来の意味は違っています。自然のままで、作為的でないことです。そこに、無駄という意味は含まれていません。逆に、何者でもないからこそ、それは何者でもありえるのです。そして無為は、無為の為という考えを発生させます。
無為の為とは、『特別なことは行わず自然のままにしておくことによって、すべてを上手くコントロールすること』を言います。我々、現代人にはまるで理解できない考え方かと思います。コントロールとは意図的にするものだからです。自然のまま、放っておくことをコントロールするとは言いません。しかし、道家ではそれを最善の方法だというのです。ただ、そう言われても、意図してコントロールすることに慣れている我々には、感覚的に理解することが難しい。そこで、具体例を幾つか上げていこうと思います。
これは、良く出される例かと思うのですが、あなたは馬車の荷台に乗っていて、何かの拍子で落下してしまうとします。その時、怪我しないように、地面に手を突き身を屈め必死で抗うのと、酔っ払っていたりして抗うこともできないまま地面に投げ出されるのと、どちらが無事でいられるかということです。実のところ道家では、無理に抗わずそのまま落下した方が無事であることが多いと言うのです。
これは、子供の頃良く言われたことですが、池や川で溺れたときは助かろうとしてもがくなというものです。自分でなんとかしようとせず、そのまま浮かんで助けを待てというのです。そちらの方が、溺れずに助かる確率が多くなると言われます。これらの話が根拠を持つのかは分かりませんが、昔からの言い伝えとして統計的に事実なのではないかと思います。
そして、この両者の例には共通点があります。両者とも、『助かりたい』という気持ちを否定してしまっている訳ではないのです。少なくとも本能的には助かりたいとは思っています。しかし、意図的に助かろうという行為をしていないのです。その結果、意図してでは得ることのできない最善の結果を得ることができるのです。

無為の為とパラグライダー
ここでもう一つ例を上げておきます。これは個人的に、無為の為を感覚的に理解できたと思った経験です。随分以前ですが、僕は友人とパラグライダーを習いに行ったことがあります。パラグライダーの説明をするのもどうかと思うのですが、滑空性能を持つパラシュートで、斜面を使って離陸し、上昇気流に乗って、空を自由に飛ぶことのできるスポーツです。
まあ、これだけ聞くと何だか爽快そうに感じると思いますが、僕たちの体験したのはあくまでも初心者向けのコースで、まったくもってそんなことはありませんでした。パラグライダーを背負って山の斜面を駆け降りては登るを繰り返すだけのコースです。もちろん、パラグライダーで飛ぶことを目的としているコースなので、それで飛び上がることは可能なのですが、なかなかそう簡単にはいきません。どれだけ勢い良く駆け降りても、パラグライダーを引き摺るだけで、汗だくになって、再び山の斜面を登るを繰り返すことになります。もちろん、翌日はとんでもない筋肉痛です。
それでもコースが終わりに近付くと、パラパラと飛び始める人が現れます。飛ぶといっても、初心者の練習ですので、地上5メーターぐらいの高さをフラフラ漂う程度なのですが、それまでの斜面を這いずり回る状態とは違い、蝶のように明らかに飛んでいるのです。そうなると飛べていないイモ虫としては当然焦りが込み上げてきます。
その時、講師の方から言われたアドバイスを覚えています。「飛べない人は、羽ばたこうとしているんだ。自分で羽ばたいて飛ぶんじゃなく、身を任せるんだ」と言われました。つまり、この考え方は無為の為と一緒です。飛びたいという気持ちは持ちながらも、あえて自分で羽ばたくことをしないのです。

無為の為の向こうの、誰からも好かれる方法
この考え方を『誰からも好かれる方法』に導入すれば、『自然であろうと意図することで、不自然になってしまう』という馬鹿らしい矛盾を超えることができるのです。つまり、誰からも好かれようとして羽ばたくことを止めるのです。そして、炎や旗や波のように、自然に身を任せておけば良いのです。「それだけで良いの?」と不安になり、あなたは抵抗感を感じるかも知れません。かも知れないというよりも、ほとんどの方がそう感じることでしょう。そして、その抵抗感こそが、無為の為を理解する上で、最も厄介な問題で、どうしても羽ばたこうとしてしまう原因なのです。
あなたを含め我々人間は、自分以外のものをコントロールしていないと不安になります。その原因は、自我の特性にあります。自我は、自分以外のものをコントロールし続けようとします。自我は自己保存を目的として作られた心理的器官であるのと同時に、想念に過ぎない事実による存在の希薄さをコントロールすること、つまり他者への支配によって埋め合わせようと常に求めているからです。つまり、自我によるコントロールを、自我によって手放すのは、客観的判断と正しい理解、そして大きな諦めの必要とされる行為なのです。つまり、それを可能とする発想が無為の為なのです。
この無為の為という考え方は、誰かから好かれるためにだけ使うものではありませんし、僕たちが何か行動するための指針となり得るものです。つまり、誰からも好かれるためにも使えるということです。
この無為の為に関しては、今後更にお話しすることになるだろうと思います。
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結論としてもう一度振り返ると、誰からも好かれるためには何をすればいいのか?
何もしなくて良いのです。
無理に好かれようとせず、ただ自然に振る舞うだけです。つまり、羽ばたくことを止め、ただ風に乗るのです。気付けば、多くの笑顔があなたを見詰めていることでしょう。

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