言葉の向こうの大切なもの

こころ

不立文字と仏典結集

仏教、特に禅には不立文字という思想があります。悟りの道は、文字・言語によっては伝えられるものではないという意味です。言葉によって伝えることができないのですから、禅の教えは禅問答であったり、念仏も唱えずただひたすら座り続ける只管打坐(しかんたざ)であったりなどと、言語とそれによってもたらす論理を超えることを要求されます。

それとは逆に、言葉を大切にする思想が仏典結集ではないのかと思うのです。結集と言われて「ああ、あれのことね」ってピンとくる人はそれなりに仏教を勉強している人だと思います。恥ずかしながら、僕も最近まで知りませんでした。

仏典結集とは

それでは結集というのは何なのかということですが、生前のお釈迦さまが弟子たちに伝えたことを、お釈迦さまの死の翌年に、弟子たちが集まって確認し合い纏めたものです。そして、そのお釈迦さま語録のようなものが、今のお経の始まりになっています。

お経には、如是我聞(にょぜがもん)という言葉で始まるものが多いのですが、「私は(お釈迦さまから)この様に聞いた」という意味です。ここでいう私は、アーナンダという特定の個人であり、彼はお釈迦さまの侍者で、お釈迦さま様の説法を常に聞くことのできる立場にありました。アーナンダがお釈迦さまから聞いた説法を、他の弟子も同じように聞いたのであれば、それはお釈迦さまの教えとして間違いないものと認定されることになります。そうして、それらは整理されると纏められ、お経というものが出来上がったのです。お釈迦さまの神格化に伴い、お経もまた神格化され、お経を読めば功徳が得られるというような信仰に繋がっていくことにもなります。

この結集という行為は、合計六回行われているそうです。その内の四回目、五回目、六回目は一部地域の一部宗派に限定されたものであまり意味はない様ですが、一回目以降に行われた二回目と三回目も仏教の方向性を決める大変重要なものであったようです。お釈迦さまの言ったことを正確に記録するなら、亡くなった翌年に行われた一回目だけで十分ではないのかと思うのですが、どうやらそうもいかなかったようです。

言葉の残響

ともあれ、仏典結集によってお釈迦さまの教えが後世に残されたのは素晴らしいことだと思います。如是我慢の目印を辿れば、僕たちはいつでも二千五百年前のお釈迦さまの言葉に耳を傾けることができるのです。

それはもちろん素晴らしいことなのですが、その言葉に思想を縛られてしまうのもどうかと思います。お釈迦さまがそれらの言葉を使って伝えようとしたのは、真理であったのだと思うのです。しかしながら、真理は言葉で伝えられるものではありません。伝えられるのは、良くて真理に到達するための方法ぐらいのものです。良くてと書いたのは、その方法自体が言葉という間接的手段を使っているために、必ず誤解されることになるのです。最善のものは理解されず、次善のものは誤解される定めにあるとも言えるのです。

そうであるなら、つまり、どうせ既存の教えを正確に伝えることができず、お釈迦さまの悟りという真理に到達するためのより良い方法があるのなら、それを採用することは許されるだろうと思います。そう言った改善を積極的に受け入れたのが、大乗仏教です。その結果、大乗仏教の経典や教義が、お釈迦さまのものではないという大乗非仏説が現れました。まあ、確かにお釈迦さまの教えは仏典結集によって限定的に決定しているわけで、それを厳密に保持しようとする宗派からすれば、それ以外の教えはお釈迦さまの教えを濁らす教えであり、仏教を騙った違う宗教とも言えなくもないのかも知れません。

自灯明

お釈迦さまの教えに、自灯明・法灯明というものがあります。亡くなるに際して、行く末を案じる弟子たちを心配して、お釈迦さまが遺言として残された言葉です。法灯明とは、仏の教えを灯明とし、拠り所として生きよと言うことで、自灯明は自分を灯明とし、拠り所して生きよということです。この自灯明という言葉を、自分の思うように教えを変えても良いという人や、拠り所というだけで変えて良いということではないと言う人がいます。僕はどちらの解釈も間違っていると思います。彼らが何を間違っているのかというと、自灯明の『』を自我と解釈してしまっているところです。

本来、自灯明の『』は、サンスクリット語で『アッタ』、ヒンディー語で『アートマン』のことを指し、それは日本語にするなら真我と言って良いのです。そう、あのアートマンであり、あの真我です。もし、「真我を灯明とし、拠り所として生きよ」と言われたなら、傲慢で自分勝手な印象は受けないでしょうし、真我の導きによりより良い教えを生み出したとしてもお釈迦さまの見た真理に反しているとは感じないことでしょう。

指月の譬え

指月の譬えという教えがあります。大乗仏教側の教えで、月を真理に、それを指し示す指を真理に辿り着くための方法としての教えを指し示しています。そして、重要なのは月か、それとも月を指し示す指かと問います。無論、大切なのは真理の象徴としての月の方なのです。それなのに、月を見ることも忘れて、月を指し示す指ばかり眺め、有り難がったり、言い争ったりしているのは明らかに目的と矛盾する愚かな行為です。

例え、お釈迦さまの亡くなったばかりの翌年に行われた第一結集であっても、所詮は言葉に過ぎません。間違いなく伝えられたにしろ、最善のものは理解されず、次善のものは誤解される定めにあります。だからこそ、仏典結集は、第二、第三と修正を繰り返すこととなるのです。

言葉は真理を伝えません。というより言葉はその性質上本質を伝えることができないのです。「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の俳句があります。この俳句は何を伝えようとしているのでしょうか。「ポチャン」という蛙が水面を叩く音でしょうか、それとも蛙の住む古びた池の趣でしょうか。それはどれも違います。松尾芭蕉は、水面に飛び込んだ蛙の水音を聞かせることで、その音の背後に佇む静けさを感じさせたかったのです。

静けさという言葉は、俳句の中に一切出てきてはいません。それでも、その俳句を読んだ者は、その静けさの中に身を置くことができるのです。おそらく芭蕉は、言葉で伝えられる以上のことを伝えるために、あえて言葉を捨てたのだと思います。

古い言葉に拘り続けるよりも、積極的に新しいものを導入していくべきかも知れません。僕などは、「月を見よ。用意できるなら望遠鏡を使っても良いよ」とさえ思うのです。

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