虚構の向こう側の世界④ 生命の木の実

こころ

それでは、『虚構の向こう側の世界③ 善悪の知恵の木の実』で考えたように、イエス・キリストの助けを借りず、あるいはイエスの十字架の刑が象徴する方法を使って、善悪の知恵の木の実を食べたことの罰から逃れることはできるのでしょうか。その表現は、すべて比喩的表現です。つまり、7万年前に人類に起こった認知革命によってもたらされた苦しみ、死を認識し相対的二元性の世界のもたらす苦しみから、人類は、逃れることはできるのでしょうか。

虚構を認識し信じることができるようになったことにより、人類は文化、文明を発展させ、繁栄を享受することに成功しました。しかし、その引き換えででもあるかのように、我々は死に怯え、癒やされない渇望を抱えることとなりました。常に存在の根底に苦しみを抱えることになったのです。つまり、生きているという事実を失い、虚構という牢獄に閉じ込められることになったのです。その苦しみを克服する方法は、あるのでしょうか。

不二の思想

その方法は存在するだろうと思います。そして、それ方法が、ノンデュアリティーの人々や、東洋の宗教が説く、悟りなのだと思うのです。悟りを体験することによって、キリスト教における神の与えた罰、つまり認知革命によって起こった虚構という認知の牢獄から脱出することができるのではないかと思うのです。そうであるなら、何故そう言えるのでしょうか。

仏教、ヒンドゥー教(ヴェーダンタ)、道教(道家の思想)、東洋のあらゆる思想が、相対関係にある二つのものは究極的には存在しないと説きます。そして、それらは『対の関係』ないしは『一つのもの』であると説くのです。

これは、創世記において善悪の知恵の実を食べたことで二つに分かれた世界からの楽園への帰還です。悟りを経験することにより、相対する二つのものを統合し、知恵のもたらす弊害から逃れようとする試み、ないしは虚構を打ち破り真理を得ようとすることです。

これは善悪の知恵の木の実を食べたことによって起こった変化を、逆に遡るということです。しかし、その体験の後は、楽園追放以前の状態、裸でぼんやり木の実を食べている状態に戻る訳ではありません。彼らは知恵の木の実によって得たものを持ったまま、神の罰を克服するのです。

生命の木の実

それでは、東洋における悟りを象徴するようなものは、創世記には現れないのでしょうか。僕は現れていると思います。それが善悪の知恵の木の実と対をなす存在の『生命の木の実』です。善悪の知恵の木と共に、エデンの園の中心に並んで生えていた木です。ちなみに、知恵の木の実は神によって食べることを禁じられていましたが、生命の木の実は特に禁じられてはいません。

おそらくは、禁じる必要もなかったのです。そもそも生命の木の食べるとどうなるのかということですが、食べた者は永遠の生命を授かることになります。善悪の知恵の木の実を食べる前に死はなかったのですから、永遠の生命も必要なかったのです。

しかし、神から罰を受けて死ぬようになってからでは、話は違ってきます。それは悟りの場合と同じように、ただ単純に知恵の木の実を食べる以前に戻る訳ではありません。認知革命が起こった後、つまり、自己意識が生まれ、死という概念を知り、善悪に代表される相対的概念に支配されるようになった後に、再びそれらを克服するのです。

ただ、善悪の知恵の木の実を食べた後、人類は楽園から追放されてしまい、神話の中でアダムとイブが生命の木の実を食べることはありませんでした。もし、その生命の木の実を食べれていれば、自己意識を持ったまま、死や相対的二元性を克服できていたにも関わらずです。

それは、ノンデュアリティーや、仏教、ヴェーダンタ(ヒンドゥー教)、道教などの東洋の思想と目指すところと一緒です。彼らは、二元性を超越し一者に到達しようとします。ノンデュアリティーにおいては二元性を否定して終わる場合が多いですが、好意的に考えれば、道教がそうであるように言葉にできないか、言葉にするまでもないからなのだと思います。そして多くの表現において、一者とは神のことです。

新たなる革命

聖書の神話の中で、何故、アダムとイブが罰を受けた後、楽園を追放されたのかということの理由として、善悪の知恵の木の実を食べた者が生命の木の実まで食べると、神と等しい存在になれるから、神はそれを恐れたというものがあります。生命の木の実を食べると、神と等しい存在になれるというのは、比喩的表現として解釈するなら、東洋思想が伝えることと同じです。イエスは十字架に架けられてなくなりましたが、その十字架は縦と横、二元的対立物の結合のシンボルであるように、僕には思えるのです。

失楽園によって、生命の木の実を食べ損ねたことは、人類に残された宿題ではないかと思えます。きっとその時はまだ早かったのだと思います。認知革命が起こったばかりの人類には、生命の木の実を食べるだけの準備が整っていなかった。文化や文明、宗教や科学的素養が発展、確固たる自己意識が形成されるのを待つ必要があったのではないかと思うのです。しかし、生命の木の実を食べること=悟りを得ることは、魂の革命とでもいうべき、認知革命以降の二度目の革命になることだろうと思います。準備は整い、もはやそれを躊躇う必要はないのではないかと思います。宿題には、提出期限があるのです。

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