人類の構築してきた世界のすべては、虚構からできていると言っても過言ではないと思います。個人的な意見としては、目の前に広がる事実、山や、空、大地にしても、直接体験ではなく、概念や観念という認識を通じて受け入れている以上、それらは虚構といえるのかも知れません。あなた達は、現実を見ているのではなく、現実に張り付いた虚構というレッテルを見ているに過ぎないのです。この記事は『虚構の向こう側の世界② 拡大する虚構』からの続きになります。
宗教などに見る虚構
そこまで考えていくと、仏教やノンデュアリティーの考え方に、共通する部分があるように感じます。仏教には唯識という考え方があります。世界は認識によって成り立っており、実体は存在しないというものです。ノンデュアリティーの人々は、全てはストーリーであるなどとも言います。
両者共に、ザックリと言えば、ある意味森羅万象、あなた達が認識するすべてを幻であるとみなすのですが、その態度がサピエンス全史で語られる、「人間は虚構を信じる力を持っている」という考えと良く似ています。サピエンス全史においては、国家や、神など、抽象概念は虚構であり幻なのです。
サピエンス全史の場合、あらゆる考えを幻とみなしている訳ではありません。しかし、僕たちの生活のあらゆる部分に虚構は潜在し、現実を成り立たせている訳ですから、同じように考えても良いのかも知れません。違いといえば、サピエンス全史が虚構を文明を生み出し、人々の間に共感を生み出すものとして肯定的に捉えているのに対し、仏教やノンデュアリティーでは真実を覆い隠す幻として、否定的に捉えているところです。
それらの態度の差は、何処から生まれているのでしょうか。それはおそらく、サピエンス全史がある種の歴史書であり、仏教やノンデュアリティーが真理を探究するためのものであるからだと思います。真理と比較するなら、それはやはり幻に過ぎないのだと思います。そして、宗教における真理は、究極の実在といえるのかも知れません。その事実を見えなくしているのが、認識という行為の間接性であり、その結果発生した結果が、あらゆる物に概念というレッテルを貼って回ったり、それらを組み合わせることで生まれる虚構と言われる概念なのです。それは確かに、真理を求める者からすれば幻に過ぎません。
認知革命と失楽園
サピエンス全史には、今より七万年ほど前の人類に、認知革命が起こったと書かれています。それだけのことが起これば、その痕跡は他にも何処かに残っているのではないかと思うのです。ここからは、仮説に対する空想ですが、あるとするなら、それはく神話より他にはないだろうと思うのです。そして、それは、猿に等しかった人類が、人間になった瞬間を描いた神話であるはずです。そのような、神話は果たして存在しているのでしょうか。
直ぐに思い付くのは、キリスト教・ユダヤ教に伝わり、創世記に記される失楽園の物語です。アダムとイブが林檎を食べて神様に怒られ、エデンの園を追い出されるお話しですね。知らない人も居ないとは思いますが、もう少し詳しく書いておきます。
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いろいろあって天地が創造されます。そこに地上の管理者としてアダムが創造されます。エデンの園には沢山の種類の実なる植物が生え、それらの中心に『善悪の知恵の木』と『生命の木』が生えていました。そこで神はアダムに対して、「どの実も食べて良いが、善悪の知恵の木の実だけは食べてはいけない」と伝えます。アダムは言い付けを守っていたのですが、アダムの肋骨からイブが創られ、イブは蛇にそそのかされ、禁断の果実である『善悪の知恵の木の実』をアダムと一緒に食べてしまうのです。
それに怒った神は、ヘビには手足を失い一生地面這いずる定めを与え、アダムには労働の苦しみを、イブには出産の苦しみ、そして、人類がいつか必ず死ぬという『死』を与え、楽園であるエデンの園から追放します。細部においてはもう少し変化があり、善悪の知恵の実を食べたことで、人間は善悪の区別を認識し、自己意識が目覚めるという物語に繋がっています。結果として、急に恥ずかしくなりイチジクの葉で急に股間を隠したりもします。
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木の実を食べたぐらいで神様も酷いことをするなぁと感じるのですが、僕はこの神話がサピエンス全史で語られた、人類の『認知革命』のことを象徴的に指しているのではないかと考えています。つまり、『死』という抽象概念を知ったから、人類は死ぬようになったのです。『死』という概念さえ知らなければ、少なくとも主観的では死は存在しなかったし、その視点から省みれば客観的視点からも死は存在しなかったのです。この状態は、古代ギリシャの哲学者であるエピクロスの死の恐怖からの解放と同じです。
彼らは『死』だけでなく、『善悪』という抽象概念も知ることになります。その結果、人類は常に何かを求め続けなければならなくなりました。それは、善と悪という対立し相対する二つのものを知ったこと、知恵を付けたことによります。この世界の森羅万象は、対立する二つのものが織りなす相対関係によって成り立っています。
知恵を得た結果、人々は常に何かを求め続けるようになったのです。善であり続けようとしたり、豊かであろうとしたり、場合によっては悪であろうとするかも知れません。しかし、それらはそもそも虚構であり、蜃気楼を追い掛けるようなものです。更に一方を追い掛けたところで、それらは相対的な関係でありもう一方は必ずあなたを追い掛けてきます。それは、永遠に満たされることのない飢えの始まりです。
確かに、現在の人類は死に怯え、常に求め続け、自己意識は苦しみを背負わされているように思えます。それは、楽園から追放され、神を見失った迷い子のようにも見えるのです。
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それが罰だというのなら、その罰から逃れる方法はないのでしょうか? キリスト教的にはイエス・キリストが十字架に架けられて……となるのでしょうが、それは一旦置いておいて、次の記事、『虚構の向こう側の世界④ 生命の木の実』では、虚構を認識するようになった認知革命の結果背負わされた苦しみ、失楽園における神の罰を解決できる方法はないのか考えていきます。


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