以前、『AIは自由意志を笑うのか』という記事で、僕は自由意志の存在を肯定しました。詳細は、その記事を参照ということでお願いしますが、おさらいの意味で簡単に振り返っておきたいと思います。AIと人間の自由意志を比較することで、人間の自由意志が『私』という『原因』を持つからこそ存在すると書きました。人は、私があるからこそ、自由に想いを綴れるのです。
しかしながら、僕たち人間の意志を、自我意識によって完全にコントロールすることは可能なのでしょうか? 今回は、前回とは逆で自由意志は存在しないという観点から考えていきたいと思います。ただ、最後まで読んでいただれば、前回の結論と矛盾しないことが分かっていただけると思います。
自由意志、ニーチェの場合
そもそも、自由意志とは何でしょか。自由意志の定義は、他者からの強制を受けずに、自発的に行動や選択を決定できる意志とあります。つまり、自分で自分の行動を自由に決定できる状態ということでしょう。他者とは、自分以外の者ということですが、人とは限らないと思います。哲学者のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、怯えや、妬み、一般的な幸福の定義に、無自覚に操られて生きている人々のことを畜群と呼び非難しました。つまり、人間の意志は、自分以外のものに容易く操られてしまうのです。そして、それらの無意識的な力に抗い、自らの確立した意志で生きていく人のことを超人と呼び、人間の理想としました。
しかしながら、運命などといった決定論に関してはどうでしょうか、決定論に関してニーチェが触れたかどうかを知らないのですが、決定論を肯定するならニーチェの理論は成り立たないのではないかと思います。未来が決定しているなのら、決定された結果に至る過程、つまり個人の判断という意志は未来によって決定されているか、その結果に至るために強制的な影響を受けているはずです。そして、それらの影響は、怯えや、妬み、一般的な幸福論に従うこととは違って抗うことができません。決定論を既定のものとして見るなら、ニーチェが言う自らの確立した意志、つまり自由意志、そしてそこから導かれる超人という理想像は、運命の鎖に繋がれている、群れていないだけの家畜に過ぎないのではないかとさえ思えるのです。
「運命なんて存在しない、神は死んだんだよ!」と仰られる方もいらっしゃるでしょうが、運命でなくとも明らかに人間の意志へ影響を与え、人を操ってしまうものが存在します。ただ、それに触れる前に、ニーチェと同じ実存主義の哲学者で、実存主義哲学を完成させたと言われる、ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルの自由意志についても少し見ていきたいと思います。
自由意志、サルトルの場合
サルトルは、人間の存在に神から与えられた運命のような意味はなく、つまり人は意味を与えられないままただ存在しているたけで、だからこそ絶対的に自由であると説きました。自らの自由意志で選択せざる状況に責任を負うことに対し、彼は自由過ぎて吐きそうになるのです。自由に投げ出された人間に対し、サルトルは未来に向かって現在の自己を抜け出し、自由意志によって自覚的に自己を創造していくことを求めました。
というのが、ニーチェとサルトルの自由意志に関する僕の理解です。ただ、美味しいところだけ摘み食いして理解したつもりになっているだけなので、異論は大歓迎です。彼らの思想を俯瞰的に見れば、二人ともが神無き世界で、人はどう生きるべきかという方法論を探し求めたのだと思います。そして、彼らの思想において、自由意志はとても重要な意味を持っているとも思います。
ニーチェにおいては、自由意志を持ち得ていない状況を脱し、自由意志によって自分の価値を創造しようとし、サルトルは、意味を与えられていない存在として、仕方無しにでも自由意志によって自覚的に自己を創造していくことを求めました。理想として獲得するにしろ、現在、不本意ながら獲得してしまっているにしろ、彼らの思想は自由意志なくしては語れないものであり、自由意志は彼らの思想において肯定されているのです。
構造という創造的破壊者の登場
ニーチェの話しの途中で、僕は、明らかに人間の自由意志に影響を与え操ってしまうものが存在すると言いました。ニーチェとサルトルの自由意志を否定するためには、どうやっても自覚できないほど無意識的で、個人を超えた意味を持たなければなければなりません。神は死んだという前提を踏まえれば、そんなものが存在するようには思えません。しかし、それは見付かってしまったのです。そして、それが構造主義という思想の標榜する、構造の力です。
構造主義とは、人の思考や社会の現象には一定の普遍的な構造があり、人間が主体的に考え行動する背後から、逃れられない影響を与えるという思想です。フランスの文化人類学者であり哲学者のクロード・レヴィ=ストロースによって提唱されました。この構造という概念は、僕が『十牛図と英雄の旅』という記事に書いたモノミスや、ユングの提唱した元型を思い出してもらえれば、ほぼほぼ同じようなものかと思います。構造は、個人の自由な意志決定に影響し、構造に添った考えに変化させます。それは、まったく新しい冒険小説を書こうとした小説家が、どうしてもモノミスの構造をなぞった物語りを書いてしまうようなものです。そこに、自己における主体的自由意志は存在しません。自己による意志すら構造の奴隷であり、自由な発想など思い上がった勘違いに過ぎません。つまり、構造主義は、実存主義の考える自由意志を、根本的に否定してしまったのです。
ちなみに、構造主義の登場により、実存主義は否定され影響力を失いました。実は、サルトルとレブィ=ストロースは同時代の人物で、元々友人だったのですが、後に激しい論戦を戦わせることになります。そしてその論争が、実存主義に引導を渡してしまうのです。論争のテーマになったのは、歴史感についでだったのですが、その歴史感を決定付ける上で、構造と自由意志という、未来に対する意志決定過程の相違は、歴史の語る意味合いに重大な違いを生み出しました。優越する自我でなく、構造の力によって歴史は紡がれていたのです。つまり、実存主義の構造主義への敗北は、自由意志の構造への敗北のようにも思えるのです。
主体性は誰のものか?
ただ、ここまで話を進めてくると、自由意志は明らかに存在しないように思われるだろうと思います。しかし、僕は『AIは自由意志を笑うのか』という記事の中で、自由意志は存在すると書いています。そして、この記事の冒頭で、『自由意志は存在しない』ということと『自由意志は存在する』ということは矛盾しないとも書いています。いまさら、ニーチェやサルトルの自由意志を復権させることはできませんが、それでも何とか自由意志と、構造や運命などの決定論的意志を共存させることはできないのでしょうか。
実のところ、それらはレイヤーの違いだと思うのです。実は、ぶつかり合って否定し合うようなものではなく、違う階層をすれ違っているだけなのではないかと思うのです。何を言っているんだ?と思われることは、僕も十分に承知しています。もう少しだけ説明をさせて下さい。
例えば、誰かがパソコンのキーボードを叩いて、『自分は自由に考えようと決めた』と入力したとして下さい。画面には『自分は自由に考えようと決めた』と文字が表示されているはずです。この文字があなたの自由意志です。ただし、あなたはキーボードを打つ何者かではありません。あなたは文字を映し出すパソコンです。そして、文字を入力している何者かが、構造や運命などという、あなたの意思決定に、無意識の内に影響を与える決定論的な意志なのです。つまり、パソコンがあなたであるなら、背後の何者かは、あなたに文字を表示させている構造や運命と呼ばれる存在です。
パソコンに文字を入力する者、そして文字をモニターに表示するパソコン、この二つの存在を、ある種のレイヤーの違いと考えるのです。ただ、そうだとしても、明らかに文字を入力している存在の方が意志を発揮しているように思えます。つまり、レイヤーの違いとは考え辛いのです。それでは、そう考え辛いのは何故でしょうか(パソコンの例えがマズいような気もしますが、この例えはこのまま使い続けます)。結果から言えば、パソコンには主体性が無いからです。主体性はパソコンの背後でキーボードを打っている、構造の方にあるように見えるからです。
主体性とは、自らの考えや判断に基づき、責任を持って行動することです。自らの考えや判断に基づき行動を決定する。つまり、自由意志の源といったようなものです。そうであるなら、構造主義の出現によって奪われた主体性を取り戻せば、自由意志は存在し得るのではないかと思うのです。ただ、主体性は構造によって奪われたままで、構造は人間の心の奥に存在し取り除くことはできません。もし構造を取り除けたとしても、運命などといった決定論的な意志を取り除くことはできません。『神は死んだ』と言われても、その前提すら特定の時代、地域での皮肉な神話に過ぎないのですから。
つまり決定論的な意志と、個人の自由意志を共存させ、レイヤーを分けるためには意志の源としての主体性がパソコンに対して必要になる訳です。果たして、個人の意志は、自らの考えや判断に基づき行動を決定する主体性を持ち得るのでしょうか。
願わくば統合か共存を
ここからは『AIは、自由意志を笑うのか』で書いたことの繰り返しになります。個人の意志が、構造の力を振り払う主体性を持つことは有り得ると思います。何故なら、僕たち個人は『私』という原因を持つからです。そして、それは、主体性の源でもあります。つまり、アートマンや、真我、原因体などと呼ばれるものです。それらの表現は宗教的であり、神が死んだ後の世界での生きるべき指針を探した、実存主義の人々の考えた自由意志とは若干の違いはありますが、これこそが本来的に自由意志を担保するものだと思っています。
逆にこれがあるからこそ、レイヤーを分けられるのだと思います。それぞれのレイヤーは、それぞれの地平として、独立した眼差しを持ち得るのです。神の意志とも言い換えられる構造や運命は、個人を超えた主体性を持ち、個人の自由意志はその源に『私』という原因体を持つのです。そして、更に思考を進めることが許されるなら、梵我一如の思想があります。個人の根源としてのアートマンと、宇宙の根理としてのブラフマンは同じだというものです。
もはやレイヤーを分けるまでもなく、自由意志と構造は統合し、共存しているのかも知れません。
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