私という混乱 ③

精神世界

前回の『私という混乱 ②』という記事の最後で、事例を挙げて自我の構造の認識が、悟りと解脱という結果にもたらす違いを考えていくと書きました。

老師の事例

YouTubeの番組の中で、仏教の老師が悟りを開いた時の経験と、その後の経過を語っていました。かなり踏み込んでいて、詳細な内容でした。老師は、数秒間の意識の断絶があった後、対面する人や、自分以外のもの、それらすべてが自分だった。そして、その後は、私は存在しなくなったと仰っていました。

その老師が、本当に悟りを開いたかということに関して、僕に断定することはできませんが、悟りに類する経験をされたのは間違いないと思います。そして、その老師は、悟りを開いた直後に会話を交わした他人も自分だったと言っていました。しかしながら、その後、その体験を元に、彼は『私』の存在を否定するのです。しかし、私が居ないと否定しているのは、その老師です。ここで僕は疑問を感じずには居られないのです。さらに、その老師が、悟りを開いたという時に見たのは『私』です。「私は居ない」と言う老師の話に出てくるのは、実のところ『私』しか居ません。これはどういうことなのだろうと思う訳です。

老師は、その後も様々な経験や、個人の考え、仏教的論理を使って、私ということを否定されていました。しかし、僕には、それらが自我の否定に留まるようにしか思えなかったのです。具体的には、縁起などによる、私という主体性の否定のように思われました。例えば、『私は私の意思でジュースを買ったように見えるが、それは縁によってもたらされた結果で、私の意思という主体性は存在していない』といった感じです。それでは、「思考が沸いてるだけ〜」といって、私の存在を否定するノンデュアリティーの人々と同じではないかとも感じました。

繰り返しになりますが、僕はその老師の悟りを開いたと言っていることを否定するつもりはありません。むしろ悟りに類する体験をされたのだと思っています。ある意味で、老師の語った内容を好意的に受け止めているのです。そして、その動画を観てから、「思考は沸いてるだけ〜」というノンデュアリティーの人々のことも好意的に受け止め、彼らを少しは理解できるようになったのも事実です。結局、彼らは、「思考は湧いてるだけ〜」という言葉を使って、自我から私という主体性を抜き取りたかったのだと思います。つまり、自我を『私』から切り離したかったのだと思うのです。それでは、何故、切り離したかったのでしょうか。

カイヴァリア

ヒンドゥー教(インド哲学のサーンキヤ学派やヨガ哲学)では、プルシャ(真我・精神原理)と、プラクリティ(根源的物質・自然原理)という二つの原理があり、そのブラクリティにプルシャが投影され、同一視されることで苦しみが生まれるとされます。ここでは、プルシャがアートマンで、プラクリティが自我、ないしは自我を構成する私に関する観念です。

ヒンドゥー教では、本来の私はアートマン(プルシャ)であり、自我(プラクリティ)とは別物であるということを認識すること、つまり悟りによってこの混同を分離し、苦しみから解放されようとします。自我とアートマンが切り離され、アートマンが完全な自由と独立した状態をカイヴァリヤ(解脱)といいます。つまり、私(自我)の生み出す苦しみは、本来、本当の私(アートマン)とは関係のないことなのです。本当の私は、何ものにも傷付かず、苦しむことはないのです。

事例に挙げた老師や、「思考は沸いてるだけ〜」のノンデュアリティーの人々は、確かにプルシャとプラクリティを切り離すことには成功しているのだと思います。彼らは、自我から主体性を取り除き、私ではない何者かに変えることに成功しました。それによって、自我がもたらす苦しみから解放されたのです。

何しろ苦しむ自我は幻であり実在せず、無いものに苦しむことはないからです。それは、カイヴァリア(解脱)の状態と言って良いものです。アートマン(プルシャ)は、自我(プラクリティ)と切り離され、自我のもたらす苦しみは、もはや『私』に影響を与えません。『私』は自由で独立した状態です。しかし、その自由で独立した『本来の私』は、老師やノンデュアリティーの人々の場合、いったい何処に行ってしまったのでしょうか。実のところ、彼らの認識によると、何処にも存在していないのです。

ノンデュアリティーの人々はともかく、老師が私は居ないという結論に至ったのは、仏教の教えが影響しているのだと思います。仏教の私の構造にアートマンや、セルフ、真我といった概念がないからでしょう。老師は、それらの教えに辻褄を合わせて、『本来の私』という核心を欠いた状態でも説明可能な論理を作り上げたのだと思います。

老師は悟りを開いたときに、「自分と他人の間に距離がなく、その他人も自分だった。目に映るものは、すべてが自分だった」という体験をしているにも関わらずです。それは「私は居ない」という経験ではなく、「私しか居ない」という体験だったのではないでしょうか。そして、その老師にとって、それは、悟りと思えるほど素晴らしい経験だったのです。僕なりの解釈を加えるなら、その時目撃した『私』こそがアートマンであり、それこそがお釈迦さまが仰ったと伝えられる、『天上天下唯我独尊』という状態なのだと思えるのです。

入力した初期値の違いによって、悟りという同じ体験、同じ真理に触れたとしても、もたらされる結果は変わってくるのです。私は存在しないという間違った自我の構造を入力したことによって、私は居ないという虚無的な結果に辿り着いてしまう訳です。しかし、それは、ボタンの掛け違いを、途中を一つ飛ばしにすることで無理矢理帳尻を合わせたようにも思えます。

まとめ

もし、私、または自我の構造を混乱を回避し包括的に捉えることができれば、様々な誤解を避け、立場の違いを埋めることが可能になるだろうと思います。僕はこのシリーズの初めで、新しい私の構造を作ると書きました。しかし、あえて統一的な私、ないしは自我の構造を図解することはしないでおこうと思います。ここまでの記事の中で、既に説明を終えています。直接的な部分もあれば、間接的に説明している部分もあります。ただ、それ以上、僕が説明を重ねることは止めておこうと思います。何故なら、あまりにも明確にすると、それが新たな誤解となり、混乱を引き起こす原因に成り兼ねないからです。もう一度記事に目を通して、あなたがあなたの地図を完成させて下さい。その方が、あなたにとって、より価値あることだと思うからです。

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