無から有は生じるか⑦ -無の力-

無から有は生じるか

存在と無に関しては、このブログの中でも多くの記事で語っています。例えば、『無から有は生じるか』という一連の記事です。6記事で構成される長い記事ですが、言いたいことは大概盛り込めたつもりです。ぜひ目を通して頂ければ幸いです。この記事は、『無から有は生じるか⑥ -パラブラフマンとイーシュヴァラ、あるいは0の地面と論理関係-』からの続きとみなして下さい。ちなみに、この記事の中で出てくる『有』は、『存在』とほぼほぼ同じ意味で使っています。写真はいつも通りの箸休めで、本文とは関係ありません。

相対的二極

多くの人にとって、存在と無は対立するものと感じられるのではないでしょうか。現実を見る限り、そうとしか感じられないだろうと思います。物があるという状態と、物がないという状態は、お互いの状態を否定し合います。そもそも、対立する概念とは、お互いを否定する関係にあるのです。例えば、善と悪、白と黒、男と女、陰と陽などです。そして、それらの対立はあらゆるものに見ることができます。『あ』というものが存在すれば、『あ以外のもの』が存在してしまうのです。何かが存在するということは、対立物も必ず存在するということです。つまり、この世のすべては対立物によって成り立っているのです。

それでは、何故そうなのかということに関しては、『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』で説明してあります。よろしければ、そちらの方をお読み下さい。とりあえず、この記事で先ず知っておいて頂きたいことは、有は無と相対関係、または対立関係を持つということです。その関係を、唯一自分の経験として直接体験感できるのが『認識する』という行為です。

認識するためには、認識する主体と、認識される客体が必要になります。そして、認識する主体と客体は、対立関係を持つ二つのものです。その内の認識する主体は、常に『私』です。だからこそ、それは自分の体験なのです。このことに関しては、『私とは何か?』という記事の中に理由を書いています。それでは認識される客体は何でも良いのかということが疑問になります。何故なら、ここでは直接体験が求められるからです。そして、直接的な認識の体験は常に認識するという行為の特性によって阻まれているからです。

幻の中の真実

この世のすべてのものは、認識されたのものであり幻に過ぎません。これはいわゆる仏教の唯物論です。認識するという状態を構成する『見るもの』と『見られるもの』、つまり『認識する主体』と『認識される客体』という要素の一方が幻なのです。いくら幻を認識したところで、認識する主体は幻の世界を脱することはできません。

それでは何を認識すれば幻を排除し、我々は存在を確定することができるのでしょうか。それは認識の外側にないことは前途した通り明らかです。そうだとするなら、認識の内側にあるものは限られています。認識の内側の内側にあるのは『認識』ということであり、それを可能にしている認識主体としての『私』です。つまり、認識主体である『私』が、客体としての『私』を認識しなければいけないのです。これは、カメラや鏡を使わずに自分の目で自分の顔を見るような不条理な行為です。この不条理さに関しては『頭山と悟り』の中でお話しさせて頂いています。あなたの手足を見たから、自分を認識したという程度の話ではないのです。

そして、その状況を、僕は『悟り』だと考えています。その説明に関しては、『悟りとは何か?』という記事に書いています。まあ、弁明が必要になるような説明ですが、よろしければ目を通してみて下さい。少し内容に触れておくと、認識主体としての私(自我とみなされる)と、客体としての私(セルフ)を繋いでいる自我セルフ軸が崩れ、自我がセルフの中に落ち込んで、『認識する主体としての私』と『認識される客体としての私』が、『一体』ないしは『対』になってしまった状態を悟りと説明しています。これは、ユング派心理学の考えを参考にしています。

対の関係への変化

そしてその状況を経た後、相対的だったものの関係性に変化が訪れます。それまでは相反する関係だったものが、それぞれを高め合う関係に関係自体を変化させるからです。

何故変化するのかという疑問には、もともとそれら二つのものは一つのものから分離された。分離するためには一つのものから分離するための反発力が必要だった。その反発力とは相対的意味という論理関係。その相対関係が自我セルフ軸の崩壊によって取り除かれたことにより、二つのものは対の関係という二つで一つのものになったという説明になります。では、何故一つのものが二つになる必要があったのかということに関しては、『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』をお読み下さい。

それぞれを高め合う関係ということについて、もう少し説明しておきます。自我セルフ軸が崩れて、自我がセルフに落ち込む体験は、相対関係を持つ二つのもの、つまりこの世界のあらゆるものに変化を与えます。それらは二極を持つ二つのものから、一つの極を共有する二つのものに関係を変化させます。これが即ち対の関係です。例えば、男性性は女性性によって成り立ちますし、女性性は男性性によって価値を得ます。善は悪によって、悪は善によって成り立ちます。あらゆる相対的存在はお互いを否定するように働くのではなく、お互いを肯定するように働くのです。

ここまでの説明を前提として、それでは存在と無はどうでしょうか。それらは対立するものであり、引き裂かれた二元性の始まりに位置するものです。何故、それらが始まりなのかは『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』で説明してあります。あくまでも時間概念の中でのお話ですが、あらゆる相対的二元性は、その二つのものから、すべてのものへと展開していったのです。

初めに、有(存在)は無に恐怖します。無は有に消滅の予感を抱かせるからです。有は無によって存在を否定され、永遠という根拠を失います。自分もいつかそこに戻って消滅することを突き付けられ続けるのです。

それでは、自我セルフ軸の崩壊(悟り)により、対立する二つのものの関係が、対の関係に変化した後はどうでしょうか。それ以外の二つのものがそうであったように、それらはお互いを否定する関係から、肯定する関係へと関係を変化させます。無が有を成り立たせ、有が無を成り立たせることになるのです。『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』でも書いていたように、有と無の成り立ちを見れば、そもそもそれらはそれ以外の関係で有り得ることはなかったのです。

無の力

有(存在)を成り立たせるのが無であるとして、それは時として余りにも脆弱に見えます。この全時空の存在を委ねるには、余りにも脆弱なのです。何しろ、それは存在しないのですから……。

あたかも無が存在しているように感じられたとしても、そこには何もありません。おそらく有である我々の想像力を超えることではありますが、だからこそ有は破壊されない力を持つのだと思います。存在さえしない無が、有に滅びることのない力を与えているのです。

有は無によって成り立っています。その無は存在しない以上、何ものによっても破壊されることはありません。存在しないものを破壊することはできないからです。そして、絶対に破壊されないものによって存在を担保されている有も、その存在を破壊されることはないのです。

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