無から有は生じるか⑥ -パラブラフマンとイーシュヴァラ、あるいは0の地面と論理関係-

精神世界

ヨガ・インストラクターやインド哲学の講師として活躍されている岡本直人さんが、また本を出版されたので読ませていただきました。『非二元と悟り』という本で、非二元を切り口に、インド哲学の真髄へと読者を誘う素晴らしい本だと感じました。精神世界に興味のある人には、是非ともお勧めしたい一冊です。曖昧模糊としたスピリチュアルなどという世界を彷徨う上での、一つの道標になるのではないかと思います。AmazonのKindleで、手軽に読むことができます。

対話形式なので内容は簡単なものかと思っていたのですが、実際に読み始めてみるとかなり高度で、インド哲学に慣れていない方はゆっくりと時間を掛け、分からないところはいちいち振り返りながら読み進む必要があるかと感じます。

しかしながら、時間を掛けて読み終えた後には、インド哲学の概要と核心を獲得できていることだろうと思います。

とまあ、あたかも『非二元と悟り』のレビュー記事ような始まりですが、今回はそういう訳でもありません。しっかりと客観的に検証された知識を、理解しやすいように順序立てて説明してくれているだけですので、読んでみてくださいとしかお伝えのしようもないのです。良い意味でツッコミようのない、完成された内容の本です。

それではこのブログ記事が何のために書かれるのかというと、本に書かれて内容から発展した個人的な考えを纏めておきたいと感じたからです。要は、僕の知らなかったインド哲学の知識が、僕が『無から有は生じるか』で書いた内容を補完してくれているように感じたのです。今回はそのことについてお話ししていきたいと思います。この記事だけで完結する内容にしようと思ったのですが、なかなかそうもいきません。よろしければ、この記事を読む前に『無から有は生じるか』と、岡本さんの著作『非二元と悟り』を読んでいただけると理解しやすいかと思います。

パラブラフマンと0の地面

僕が知らなかった内容とは、ヴェーダンタに記されている内容で、特にパラブラフマンやイーシュヴァラに関しての部分です。

ヴェーダンタとは、ヴェーダと呼ばれるインド哲学の経典の最終的な結論、奥義という意味の「ヴェーダ」に、「終わり」という意味の「アンタ」を付けて、「ヴェーダーンタ」と呼んでいるのだそうです。さらに、それを大きく分けると、抽象的なブラフマンを哲学的に考察する「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」と、「イーシュヴァラ」と呼ぶ人格神を積極的に説く「ヴィシシュタードヴァイタ・ヴェーダーンタ(被限定者不二一元論)」に分かれるのだそうです。

僕は、今まで哲学的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタのアプローチの方を好み、人格神を信仰する態度を敬遠していたかも知れません。しかし、岡本さんの本を読んで、信仰している人たちが理解しているかどうかはともかく、その教えの中心には連綿と流れるインド哲学が存在しているということに気付かされたのです。

それでは、そのヴィシシュタードヴァイタ・ヴェーダーンタの教えのどこに魅力を感じたのかということですが、先にも書きましたが、パラブラフマンとイーシュヴァラに関してです。

パラブラフマンは、あらゆるものがその中で展開する第一原因であり、『場』のようなものと岡本さんは仰っていました。パラブラフマンのパラは『超えた』という意味だそうで、『最高の』と訳されることもあります。あらゆるものがその一者から生じその中で活動する、空間のようなものだそうです。まあ、分かりにくいことこの上ないのですが、個人的な意見として『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』で説明した『0の地面』と同一の概念と言っても良いのではないかと思うのです。

もう一度、ホーキング博士の穴で話した0の地面に付いて説明していきます。そもそも、その記事は無から有は生じるかということをテーマに書かれています。そして、無から有の生じる可能性として、ホーキング博士の仮説を紹介しているのです。ホーキング博士は、無から有を生じさせるには、絶対無に高さ0の地面を仮定し、そこに穴を掘り、掘った土砂を無に積み上げれば良いと仰っていました。これはもちろん仮説であり比喩的表現です。僕はイメージしやすいように数字の並びで、ホーキング博士の提唱した言葉を表現してみました。

……-2・-1・0・+1・+2……

+の数字が有で、-の数字が有を生み出すために絶対無の中に掘った穴としての無です。これらの数字は+と-で完全に釣合い、対を成しています。そして、この相対は分裂を繰り返し、森羅万象へ発展していきます。老子が伝えたとされる『天下万物は有から生じ、有は無から生ず』ということです。

しかし、今回お話ししたいのは、そのことではありません。+と-の間にある0の地面のことに焦点を当てたいのです。この0の地面を、僕は『無に穴を掘ると仮定した時点で、有にも無にもなる可能性を潜在させた、地面としての0』と表現しています。時間に着目して表現するなら、未来に起こった出来事によって、過去の状況が決定するということになります。つまり、時間の流れは、ここである程度の柔軟性を持ちます。

この表現に関しては、非常に直感的で、感覚的に理解しづらいかと思います。しかし、これ以上具体的な言葉を使うと、伝えたい本質を損なってしまうことになるのです。つまり、この表現に対しては、直感的な理解が優先されるということです。そして、その有にも無にもなる可能性を潜在させた0の地面を、表現の違いとして、僕は仏教の空や、ローラシア型神話におけるカオスの概念に当てはめてみました。そして、その表現の違いの一つに、パラブラフマンを加えることができるのではないかと考えるのです。

表現の違いを厳密に当てはめれば、多くの違いがあって、パラブラフマンと0の地面を同一とは言えないと思います。ただ、その違いを大同小異と割り切れば、同一のものを指していると考えられなくはないのではないでしょうか。つまり、ホーキング博士の地面と、仏教の空、神話におけるカオス、おまけで道教のタオなどと、パラブラフマンは同列に扱うことが可能だと考えます。

誰が穴を掘ったのか? イーシュヴァラと論理関係

パラブラフマンとホーキング博士の地面との共通点は、あらゆるものがそこから生じる、そして質量やエネルギー的なものではなく、不可知の場のようなものであるということです。ホーキング博士の地面も知的に推量することはできても、実際的に認識することはできません。それは、先に解説しているように、実体として存在するものではないからです。そして、ホーキング博士の地面では穴が掘られ小山が作られることで、パラブラフマンがあらゆるものをその中で展開させるように、森羅万象が創造されていくことになるのです。

先のブログ記事の中では触れていませんが、そうだとするなら誰が穴を掘り小山を作ろうとしたのかという疑問が生まれてきます。そして、その疑問にも、イーシュヴァラなのではないのかと答えることができると思うのです。岡本さんの説明の中では、パラブラフマンから生じるエネルギーの中心となるのがロゴスでありイーシュヴァラであると書かれています。ロゴスは新約聖書に出てくる神のことで日本語では「ことば」と訳されています。『無から有は生じるか① -創世神話-』で取り上げた「光あれ」のアレです。

それでは、そのロゴスをホーキング博士の地面に当てはめれば、どのように解釈することができるでしょうか? ロゴスは光を生み出し、結果的に闇をも生み出す力です。光と闇は相対的関係にあります。そのような関係は他にもあったでしょうか? もちろん、ホーキング博士の無の穴と小山自体が相対関係にあるのですし、以前の記事では沢山の例を出しています。だからこそ、比較的説明のしやすいものを探してみます。

思い付くのは、お釈迦さまが悟りを開いたときに見たビジョンとしての因果です。これも『無から有は生じるか』の中で説明しています。この記事の中で、泉美治先生の論理を参考に、因果の法則の中の原因と結果を時間関係ではなく、論理関係であると説明しました。

つまり原因から結果へと順番に起こるのではなく、原因と結果を構成する論理関係が現れた瞬間に、原因と結果は同時に現れるのです。そして、時間的束縛から解放されれば、原因と結果は相対的な関係なのです。なぜなら、どちらかが優先的地位にないにも関わらず、違いが存在するのはそこに『違い』という相対関係が存在しているからなのです。原因として父から結果としての子が生まれるのであれば、どちらかが優先的地位を持ちます。しかし、実のところは子が生まれたと同時に、論理的関係によって親が生まれているのです。これは時間的関係を介さず、論理によって同時なのです。

そこには論理があるのです。そして、その論理が有と無という相対的な二つのものを創り上げます。更に、その二つのものは分離を繰り返し森羅万象へ展開していきます。そのカオスを二つに分つ論理をロゴス、ないしはイシュヴァラと見なせるのではないのでしょうか。

ここで世界の展開の時間的順序を見ていきたいと思います。岡本さんのおっしゃるヴェーダンタでは、初めにパラブラフマンがあり、イーシュヴァラが出現し、ダイヴィ・プラクリティが続き、ムーラ・プラクリティへ発展していきます。ホーキング博士の0の地面を元にした僕の考えでは、論理関係が存在し、それによって0の地面が現れ、森羅万象へ展開していきます。論理関係をロゴスまたはイーシュヴァラとし、0の地面をパラブラフマンとするなら、イーシュブァラが現れ、それによってパラブラフマンが発生する順番になります。つまり、発生の時間的順序が逆なのです。

しかし、これも矛盾なく説明することができます。先に説明した、未来に起こった出来事によって、過去の状況が決定すると言う部分です。つまり、ここに出来事の発生する時間的順序は前後します。パラブラフマンから発生した、イーシュヴァラがパラブラフマンを発生させていると言えるのです。それらは時間的順序が前後しているというか、ある程度の柔軟性を持つか、時間関係を無視して同時と言うことができます。

まとめ

そういう訳で、いつも通り長々と書いてきましたが、この記事に関して言えば結論のようなものはありません。岡本さんの『非二元と悟り』を読んで、僕なりに「こう思い、こう考えた」ということを報告するだけの記事です。強いて言うなら、内的旅の次の目的地が決まったよという現状報告になります。一元的存在、お髭を生やしたおじいちゃんのような人格神とは言いませんが、意思を持った絶対的存在、つまり創造者の存在に付いて僕は関心が出てきたということです。もう少し詳細にいうなら、そのような者が存在し得る可能性が見付かったということの報告なのです。

結論のない報告って、わざわざ読者のいるブログでやること?と思われるでしょうが、岡本さんの本がついつい余計に記事を書いちゃうほどの発見をくれたということなのです。

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