この記事は、『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』という記事からの続きになります。先ずは、そちらの方からお読み下さい。
0、即ちシューニャ
……-2・-1・0・+1・+2……
上の数字の並びは、ホーキング博士の伝えようとしたことを僕なりに表現したものです。真ん中の0は地面であり、左側の-の数字は、有を生み出すために掘った穴であり、有の対極としての無です。そして、その数字は永遠と続きます。0を挟んだ+の数字は無の対極としての有です。こちらの数字も永遠と続くのです。ただ、穴としての無の分だけ、有としての小山ができているのですから、有と無の数字の数は常に同じであり、それらは0を挟んで対をなしています。今回は、この図の方から話を進めていきたいと思います。
あなたは、真ん中の0を見たとき、それが『無い』ということだと思わなかったでしょうか。そう習ってきたし、それはもちろん正解です。ただ、『〜〜では無いということ』を指して正しいと言えるのです。上の図では、有でも無でもないものであり、逆説的に言えば有でも無でもあるものと言えます。まだ何も詰め込まれていない『空』の状態と言えます。

0の概念が発明されたインドで使われていたサンスクリット語では、0を『シューニャ』と言い、「~を欠いている」という意味で、『空』を指します。空と言われて真っ先に思い浮かぶのは、色即是空 空即是色 の空です。それは、正しくシューニャのことです。仏教の概念でも特に難解なことで有名ですが、空とは『有でもあり、無でもあるもの』と説明されることがあります。ここで、もう一度、上の数字の並びに注目してみたいと思います。というか、もう一度コピペして貼り付けておきます。
……-2・-1・0・+1・+2……
ホーキング博士の回答では、真ん中の0は有にも無にもなる地面でした。つまり、この0という地面は、潜在的に有と無になる可能性を含んでいると言えるのです。逆説的に言うなら、何もない無に0が仮定されているからこそ、有と無は存在することができるのです。確かに、鈴木大拙氏が、無を、絶対無と無に分けたほうが良いのではないかと考えたのも頷けるところです。もし、「空とは何か?」という問いを受けたとするなら、ホーキング博士の仮説を前提として、「有にも無にもなる可能性を潜在させた地面としての0」と答えるだろうと思います。
対としての有無
そして、もう一つ重要なことは、有と無が0を挟んで完全に対になっていることです。神話の中でも、混沌から現れたのは対になる存在でした。だいたいは天と地であり、光と闇であったり、男と女であったりします。それらはお互いを否定する反対の属性を持っており、そうであるにも関わらず、相手なくしては自らの存在を肯定することができません。このような関係を対の関係と言います。
神話を飛び出し現実の世界を見てみると、やはり対になるもので満たされていることに気付けるかと思います。それこそ男と女、富と貧しさ、美しさと醜さ、生と死。対の関係は何らかの状況に限定を受けて存在する訳ではありません。存在するものは、概念や観念を含めてあらゆるものが、相反する関係を持ち、その否定により自らの存在を肯定しているのです。

ここに『あ』という観念が存在していたとします。『あ』には相反する関係は存在しないように思えます。『あ』の反対は『い』ではないし『う』でもない。それなら『ん』はどうかというと、確かに五十音の始まりと終わりとして相対する性質を持ちます。しかし、ここで相対し反対の性質を持っているのは、始まりと終わりということであり、『あ』ということではありません。
それではやはり、『あ』には相反する対になる関係はないのではないかと思われるかも知れません。しかし、やはり『あ』にも相対するものは存在します。『あ』という観念が存在することによって、『あ以外のもの』という観念が生まれるのです。これは屁理屈のように思われるかも知れませんが、実のところ最も純粋な相対する関係、対になる関係であるのかも知れないと思うのです。無ができたことによって有が存在した、ないしは有が存在したことによって無ができたのたと同じ構造です。
そうなのです。この世界のあらゆるものは原始にあった有と無の分裂、つまり、0という地面から有と無が現れたのと同じ構造によって生み出されているのです。何者もそれを否定する反対の存在、対になる存在を持たないものはありません。混乱に満ちる有象無象の馬鹿騒ぎの根元には、たった一つの法則があるはかりなのです。
万物斉同
中国戦国時代の思想家に荘子という人物が居ます。中国三大宗教の一つである道教に強い影響を与えた道家と呼ばれる思想家で、老荘思想と呼ばれる哲学の一翼を担っている人物です。彼が書き残した考え方に『万物斉同(ばんぶつせいどう)』という思想があります。万物斉同とはどの様な思想なのかを、少しだけ書いておきます。
万物は、すべてが善悪や貴賤、美醜、生死など相反するものによって成り立っている。そして、その二つのものを巡って、どちらが良いか悪いかなど、人は常に争っている。しかし、それらは分別知によってもたらされ、そもそも元は一つのものであると、万物斉同と思想では考えます。そして、その一つのものというのが『道(タオ)』です。
結局、分別知によって分けられた二つのものは元々一つで、それを踏まえて考えば二つのものは片方だけで存在し得るものではありません。つまり、片側が存在しているのは、もう片側が存在しているからなのです。善が存在しているのは悪が存在していからだし、美が存在しているのは醜さが存在しているからなのです。それらが存在しているのは、それらの相反するものが存在するからで、これは有と無の関係から引き継がれ、僕が先に、たった一つの法則と言ったものです。
有を存在させているのは無の存在であり、無の存在を否定してしまった瞬間、有も消滅してしまうのです。この関係は、片方が存在しなければ、もう片方も存在し得ない関係、つまり対の関係と表現できます。そして、分別知によって分けられた相反する性質を持った二つのものが絶対的に合一する一つのものが道(タオ)と呼ばれるものです。老荘思想と呼ばれる道家の思想は、万物は二つで一つの対の関係であることを感得し、最終的には道(タオ)と一つになることを勧めています。
それでは、二つのものの片割れの有に過ぎない僕たちが、どのようにすれば道(タオ)を会得することがでるのでしょうか? 次の記事・『無から有は生じるか④ -相対の崩壊、そして-』では、その方法を考えていきたいと思います。

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