あなたを含めた森羅万象、この世界に存在するあらゆるものは一体どこから来たのでしょうか。可能性としては二つあります。そもそも有るということは始まりもない彼方から有り続けているという考えと、無から発生したという考え方です。
最近の科学では、ビッグバンによって無から宇宙が生じたと言われています。しかしながら、無から有が生じるものでしょうか。エネルギー保存の法則を考えればそんなことはまったくもって不可能な訳で、それらの理論は僕たちの常識を超えたところで語られているのです。科学者達はそんなことは百も承知で、それでも宇宙は無から生じたと言っています。
僕個人として、どう考えているのかというと、実のところ無から有が生じたと考えているのです。その考えに根拠はあるのかと問われるなら、消極的に『ある』と答えるかと思います。この記事は、無から有は生じたという考えに、根拠を探していく内容になります。
注・本文中に載せている写真は本文の内容とは関係ありません。箸休め的な意味で載せているだけで、ぜんざいを食べるときの塩昆布のようなものとお考え下さい。

無とは何か?
もう一度、この記事の中で扱う『有』とは何かということに付いて考えていきます。それは、「有って何だろう?」と考えているあなたを含めた森羅万象で、無論、物質に限定されません。時間や空間まで含んだものになります。それでは、その逆に無とは何かというと、有に含まれる概念を含まないものということになります。つまり、無は時間や空間、物質、それらから生じる概念までを含まないということになります。そんなものが、有である僕たちに想像できるのかと言えば、できないだろうと思います。完全に無いものは想像すらできないです。想像した瞬間に想像したイメージが存在してしまうことになります。
僕たちが無を想うことができるとすれば、『無いということが有る』という程度のイメージまでです。ただ、個人的な経験として、僕は無を見たことがあります。無いものを見るってどういうことよ?と思われるとは思いますが、その時のことに関しては『始まりの記憶』という記事に書いてあります。二度目の体験の部分です。あらゆる表現が間違っていることを踏まえた上でお話ししますが、その体験の後、僕は無を確定した概念として扱うことができるようになりました。『無ってなんだろう?』という状態から『無とはアレである』という状態です。つまり、無を経験として具体的に理解したと感じているのです。
始まりは必要とされる
無は、始まりに隣接しているのです。無があるから、有が現れた瞬間が始まりになります。そして、無がなく、有が永遠に続くのであれば、始まりは存在しないことになります。科学でも、親宇宙から子宇宙が生まれ、さらにその子宇宙から孫宇宙が生まれを永遠に繰り返すという理論があります。しかし、それでは宇宙が何故存在するのかという疑問に答えることはできません。宇宙は理由もなく、無限の過去から有り続けているだけです。「だって有ったものは、有ったんだもん」では、何の説明にもなりません。少なくとも、有るという事実を納得して受け入れるために、始まりは必要なのです。有の始まった理由は、有の存在する理由でもあるはずです。そういう訳で、有の始まりに付いて考えてみたいと思います。
科学以外に宇宙の始まりを伝えるものはないのでしょうか。もちろんあります。それも数え切れない程の数があります。既にお気付きかと思いますが、それは神話です。
現代まで伝わる神話には、ゴンドワナ型神話と、ローラシア型神話の二種類があります。ゴンドワナ型神話には宇宙の成り立ちは記されていません。大地はもともとそこにあったし、空はもともとそこにあったのです。ゴンドワナ型神話は、出アフリカ以降の人類の移動により世界中に広まり、そこからよりストーリー性を持ったローラシア型神話が生まれてきたと考えられています。そして、このローラシア型神話には、世界の始まりが記されており、それがゴンドワナ型神話とローラシア型神話を隔てる最も大きな違いになっているのです。その神話を創世神話と言います。
それでは、その創世神話のいくつかをピックアップして見ていきたいと思います。あと、この記事を通して、有のことを、時空であったり、世界であったりと複数の呼び方で呼ぶと思います。というか既に呼んでいますが、背景事情に合わせて使い分けているのです。古代人が時空や、有という言葉を使うのはおかしいし、物理学者が有を指して世界と言うのもおかしいからです。混乱させるかも知れませんが慣れて下さい。
創世神話
創世神話とは、世界や、人間、文化などの起源、つまり始まりを伝える神話のことです。ここでは世界の成り立ちについて見ていこうと思います。ちなみに、創世神話と創造神話はほぼ同じもので、創造神話という場合は神の意志がある場合に限られます。
日本神話の場合
ご存知、日本の神話である日本書紀の場合、イザナギ、イザナミの男女の神が、天沼矛(アメノヌボコ)で混沌を掻き回し、その矛から滴り落ちた塩が積み重なって最初の国土である『オノゴロ島』ができます。そこから次々と国土と神々が生み出されていきます。
中国の神話の場合
混沌の中に盤古が生まれます。盤古が生まれたことにより、混沌は天と地に分けられます。その後も天と地、それらを分つ盤古は成長し、背丈が9万里の大巨人なった後、盤古は死にます。盤古が死んだ後の死体の様々な部分からこの世界が造られます。
ギリシャ神話の場合
宇宙は混沌から生まれ、その後、宇宙卵が割れ、天と地になった。
エジプト神話の場合
混沌の海、原初の水、ヌンから、太陽神・ラーが生まれ世界を造った。
ヒンドゥー教の場合
不老不死の霊薬・アムリタを得るために、インドラとアスラが協力して、乳海を撹拌します。1000年撹拌を続けると、世界を構成する要素が現れ、最終的にアムリタを獲得します。
仏教の場合
仏教に創世神話はありません。ただ、仏教に関しては後でもう一度お話ししたいと思います。
旧約聖書の場合
ユダヤ・キリスト教の創世神話は、比較的新しい創世神話で、旧約聖書として余りにも有名です。内容を書いていきます。
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
新約聖書の場合
新約聖書に創世神話はありません。旧約聖書と共有しているのだと思います。ヨハネ福音書には、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と記されています。
※
最初の部分だけ抜き出しましたが、この後神はアダムとイブを作ったりします。『地は形なく』という部分が混沌、つまりカオスと書かれていることもあります。
ここに列挙した神話は、世界中の神話の中のごく一部ですし、さらに創世神話の部分だけを抜き出しています。僕がググって選び出したものである以上、恣意的なバイアスが掛かっていることも認めます。ですから、これらの神話を『無から有は生じるか?』という疑問への答えにするつもりはありません。同じ神話でも、例えば日本神話のイザナミとイザナギの国生みにしても、古事記と日本書紀では内容が違っています。ですがら、神話の語る内容をして、根拠とするつもりはありません。ただ、神話の持つ傾向を理解して、そこから考察することの助けにすることができるのではないかと思うのです。
カオスから生まれる
これらの創世神話に目を通して直ぐ目に付くのが、混沌(カオス)の存在です。カオスはギリシャ神話における原初の神であり、全ての神々や英雄たちの祖にあたります。オルペウスによれば、このカオスは有限なる存在全てを超越する無限を象徴しているということです。つまり、この混沌(カオス)より前には、何も存在していないのです。カオスの中では時間も存在していないので、カオス自体は有限のものではないと言えます。カオスから生み出されたものが有なのです。つまり、カオスが有の始まりの起点と言え、繰り返しますがカオス以前は無なのです。
旧約聖書では、天と地が分かられた後、大地にカオスがあったとされ、カオスの前にも有はあったように感じますが、カトリック教会の司教であったアウグスティヌス(354年11月13日 – 430年8月28日)は、最初の内容を『無からの創造』と解釈しました。その解釈はそれ以降のキリスト教の標準的解釈になったそうです。事実、無から宇宙が始まるピッグバン宇宙論が発表されたとき、ローマ法皇・ピウス12世は聖書の内容が科学的根拠を得たと大変喜びし、周囲から嗜められる程だったそうです(ガリレオの時は怒ったくせに、身勝手なものですね)。
とりあえず、僕たちが親しんでいるローラシア型神話には、必ず始まりが存在し、始まりの前は無があったということです。
始まりにある二つのもの
そして、もう一つ意識してもらいたいのは、始まりにおいて必ずと言っていいほど、二つのものが関与しているということです。だいたいは最初の分離か、分離を促すものです。具体的には、天と地です。多くの神話で混沌は、天と地に分けられます。そして、それが初めて誕生した有です。キリスト教においては、光と闇かも知れません。ロゴスが「光あれ」と言った瞬間、同時に闇も現れています。そして、それらの分離から、連鎖反応のように次々と万物は生み出されていくのです。
日本の神話においては、イザナミとイザナギという二柱の神が居ます。これらの神が協力して混沌を掻き回すことにより、最初の有であるオノコロ島が生まれます。まったく同じ構造なのですが、ヒンドゥー教の神話でも、インドラとアスラが協力して、乳海を撹拌しすることで万物を生み出します。
まったく同じと言ったのは、二人で混ぜるというだけではありません。その二人が相反する性質を持つのです。イザナミ・イザナギの場合は男と女。ヒンドゥー教の場合は、インドラとアスラ、つまり神と悪魔というまったく正反対のものが協力し合って万物を生み出します。正反対の性質を持つものが、相互に必然的に協力する関係を対と言います。天や地もそうですし、光や闇もそうです。片方が存在しなければ、もう片方は存在しません。
この関係を覚えておいて下さい。次の記事・『無から有は生じるか② -ホーキング博士の穴-』では、この関係を踏まえて、具体的にどうすれば無から有は生じさせられるのかを考えていきます。ここからがこの記事の本題で、たぶん面白くなります。

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