暴走族と成人の儀式

こころ

最近は余り見なくなった暴走族ですが、概ね誰もが若い頃は無茶をしてみたくなるものです。信号無視に、スピード違反、違法改造に、爆音運転、迷惑極まりない行為で弁護のしようもありません。それに加えて、喧嘩や素行の悪さも折り紙付きです。彼らは何故そんな行為を行うのでしょうか。「知らんがな!」というお気持ちは分からなくもないのですが、彼らが何故そのような行為を行うのかを、もう少し掘り下げて考えてみようと思います。

それは境界を越えるために

暴走族などで無茶をしていた若者達も、ある程度の年齢がきたら落ち着くのが普通です。中には犯罪者に落ちる者もいるでしょうが、だいたいは就職し、結婚して幸せな家庭を築きます。まるで憑き物でも落ちたように、穏やかな暮らしを手に入れるわけです。暴れ回ったあの頃はあたかもなかったかのようにです。それでは、あの頃の彼らは何だったのか? あれは無意味な時間だったのか?という想いに駆られます。迷惑を掛けられているこちらとしては、落ち着いてくれてホッとしているところなのですが、あの膨大な精神的エネルギーはどこから来ていたのかという疑問が湧きます。

少し記憶が定かではないのですが、心理学者の河合隼雄氏だと思うのですが、彼らは大人になるための儀式を行っているのだろうと仰っていました。「大人になるための儀式? あの無秩序な混乱が?」と思う方も多いと思います。そもそも「大人になるための儀式って、ほっといても歳を取れば大人になるやん」と思う方もいると思います。しかしながら、実際はそうもいかないようなのです。

特に男性の場合は、成人の儀式が必要になるのです。『特に男性の場合は』と書いたのには理由があって、女性の場合は肉体の変化によって、ある意味自然と大人になっていくからです。胸が膨らみ月経を迎えることで女になっていき、男性と性的関係を持つことで処女を失い、男性を受け入れられる大人の女になり、妊娠することで母になります。精神の変化が、肉体の変化によって引き起こされます。ですから、女性には成人の儀式が男性と比べると必要ないのです。

ただ、女性と比べると、男性にはそのような劇的な肉体的な変化はありません。女性ほど肉体と精神が直結していないのです。ですから、男性が大人になるためには、精神に影響を与え、成長を促すための儀式が必要となってくるのです。近代化されていない未開の部族には、そのような儀式が今も沢山残っています。

大人になるための成人の儀式

ナゴール

バヌアツ共和国には、ナゴールという有名な成人の儀式があります。木材を組み合わせ20〜30メートル程の櫓を組み、その上から足に蔦を巻いた若者が地面に向かって飛び降ります。もう一方の蔦の端は櫓に括り付けられており、地面に叩き付けられようとする若者の体を引き留めます。しかし、蔦の長さは櫓の上と打面との長さよりも余り、真下に飛び降りたら、だいたい頭を打って場合によっては死にます。

これにはコツがあって、勇気を持って前方に踏み出せば、張り詰めた蔦は空中で体を停止させ、引き戻される振り子が地面を掠めるように、着地の衝撃を斜めに分散しながら和らげます。もし怖気付いて飛び出せば、そのまま真下落下し、頭を地面に打ち付けることになるのです。つまり、死ぬかも知れない恐怖を乗り換える勇気が試されるわけです。このナゴールが有名なのには、現在娯楽として楽しまれているバンジージャンプの元ネタになったという経緯もあります。

割礼の儀式

言わずと知れた割礼の儀式です。少年が小屋に篭り、性器の包皮を切り取ることで大人になります。男性なら「そういうことね」と感覚的に理解できることですが、現代人の我々には分からない部分もあります。麻酔もない不衛生な環境で、素人の呪術医によって行われることで、激痛に苛まれ、病気に感染し死亡することがあります。やはり、これも命懸けの儀式です。

ちなみに、割礼の儀式は女性にもあります。アフリカを中心とした一部地域ですが、女性のクリトリスを切り落とします。これは女性が性的快感を感じるのを悪とする考え方からきており、成人の儀式ではありません。伝統といえど、死亡リスクも高いですし、女性を産む道具のように扱ういむべき行為だと思います。女性の成人の儀式としては、歯を研いで尖らせるバリ島のポトンギがあり、縄文人には日本でも、抜歯や、歯に溝を掘ったり、研いで尖らせたりしていたようです。ただ、これは女性だけではなく、男性も共に行っていました。

その他の儀式

他にも様々な成人の儀式があります。マサイ族の成人儀式は、かつては、男性がライオンを仕留めにいくというものがありました。凶暴なライオンを狩ることで、勇気を試されるのです。もし、怖気付いて狩りに出られなければ、一生結婚もできなく、村のコミュニティーにも参加できなくなったそうです。同じようなものには、パプア・ニューギニアの『シャークコーリング』というものもあります。サメを呼び寄せ、ほぼ素手でサメを捕まえるというものです。もちろん、ライオンに負けず劣らず危険な通過儀礼です。

アマゾンの先住民族である、サテレ・マウェ族には、ブレットアント(弾丸蟻)と呼ばれる、激痛を生じさせる毒を持った蟻の詰まった手袋に手を突っ込み、痛みに耐えるという儀式があります。これも、激痛に耐える忍耐力と意志、自ら手を入れる勇気を試される儀式です。

越えるべき境界線

数え上げればキリがないので、この辺にしておきますが、それぞれの儀式には共通する部分があります。 それは、死のリスク、耐えがい激痛、それらのもたらす不安と恐怖に自ら飛び込む勇気が試されるということです。しかし、それを乗り越えることで、少年は大人になることができるのです。

ジョセフ・キャンベル先生か、河合隼雄氏かのどちらかが仰しゃっていたことだと思うのですが、二度と繰り返したくない困難な体験を経験することによって、それ以前の精神の状態に戻れなくなるのです。大人になってから、少年期に戻ろうとすると、その怯えと恐怖をもう一度乗り越えなければなるのです。それはとても繰り返されるものではありません。それによって、少年と大人の間には、明確で不可逆的な境界ができることになります。言い方を変えれば、少年の精神は死に、大人としての精神が誕生する訳です。これは、個人における『死と再生のドラマ』です。

しかしながら、現在の近代社会には、この様な儀式は存在しません。もちろん、成人式は存在ありますが、あくまでも法的に成人したということ告げるだけのものです。個人の精神を大人に変化させる儀式的力を持つものではありません。精神が子供のままでも、大人になることができてしまうのです。本来なら、社会的に排除され、結婚も叶わなかったはずの人物が大人の権利を持ってしまうのです。

アダルトチルドレンと呼ばれる人々が居ます。それは病気ではないですが、幼少期のトラウマによって大人になれずに、日常生活、特に家族関係に機能不全を起こす人々です。彼らの心の傷は深く、根深いものです。おそらく彼らにトラウマを与えた親もアダルトチルドレンであり、更にその親もアダルトチルドレンなのです。それは、代々引き継がれてきた心の傷であり、愛の歪みです。

軽々しく話して良い問題でないのは理解していますが、彼らの成長過程に、未開の部族に伝わるような成人の儀式のようなものが存在していればどうだったでしょうか。彼らの愛情の機能不全は、改善されていたのではないでしょうか。事実、男性のアダルトチルドレンは改善することができます。それに反して女性のアダルトチルドレンの改善は、男性と比べると難しいのが現状のようです。女性は身体の成長に伴い精神も成長し、ある意味自然と大人になっていくものなのです。それでも、アダルトチルドレンであるのは、それだけ癒し難い深いトラウマを抱えているからということになります。

暴走という助走

このように、成人の儀式という明確な境界を持たない現在の社会で、人々はどのような方法で子供と大人の境界を越えるのでしょうか。そもそも明確な境界が存在しないことが問題なのです。その方法の一つが、暴走族の暴走行為、もう少し枠組みを広げれば『若い頃のヤンチャ』です。更に広げれば、初めての海外一人旅だったり、無茶な夢を追い掛けることだったりするのかも知れません。

それらに共通していることは、不安や恐怖に、自ら飛び込んでいくところです。場合によれば命を落とす危険さえあります。そして、その共通点は未開の部族における成人の儀式と同じです。成人の儀式でも、死のリスクと苦痛に満ちた儀式に、勇気を振り絞り自らの意思でおもむくのです。それぞれの行為の持つ本質的な意味に、違いは特にありません。つまり、暴走族の暴走行為は、未開の民族の成人の儀式と同じ意味を持つと言っても良いのだと思うのです。

もちろん、暴走する若者たちに、自分たちが成人の儀式を行なっているという自覚はありません。彼らは無意識的な衝動に突き動かされているだけです。現地の言葉も話せないまま、海外の混沌に飛び込む若者も一緒です。自分の限界を突き破りたいという衝動に突き動かされているのです。その衝動こそ、大人になろうとする力です。子供と大人の境界を越えるための、ある意味助走です。自分との戦いに、勇気を振り絞り飛び込んでいるのです。二度とできないような挑戦を成し遂げることで境界を超え、大人という存在に成れることを彼らの本能は知っているのです。そう思いながら彼らを見ると、迷惑極まりないヤンチャな行為も、少しは応援したくなってこないでしょうか。

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